第40話 治癒(3)

文字数 2,086文字


 トウマをその目に見た瞬間から、ケイカの心の準備はもう出来ていた。

 二人はウメさんに、用意していた「春の唄」を送った。ケイカは演奏し、トウマが歌った。いつ練習したのかケイカには分からないけれど、トウマはその歌詞を完璧に覚えていて、ひとつも間違えることなく歌い上げた。想像したとおり、この歌詞はトウマの美しくて、特に今日の柔らかで優しい声質にぴったりはまった。

 ケイカは幸せだった。自分の鳴らす音と色と、トウマの歌声に包まれながら考えた。困難はあったけれど、この課題に取り組んで良かった。ふと、こんな時に思い出した。あのおじいさんが花壇で言っていた(クロッカス)の話。私の足りない色は何色だったんだろう。未だにわからないけれど、今はそれをトウマの歌が埋めてくれている。

 ケイカがステージの歓迎の席を見ると、ウメさんは相変わらず口を動かしていた。ずっとその表情をしていなかったからか、とても笑顔には見えない。でも彼女の細い線のような目から、皺に沿って幾筋も涙が溢れていた。自然と手が動いて、ゆっくりとしたペースの拍手をしてくれていた。ケイカとトウマは顔を見合わせた。言葉は交わさなかったけれど、二人にはわかっていた。ウメさんはきっと昔に戻って、心の中でこの歌をもういちど歌っているんだって。


 園長先生の最後の挨拶と、スタッフ全員、そして老人たちの大きな拍手が締めとなり、誕生日会は終わりを告げた。

「何だい、そのたくさんの荷物」

 ホームの玄関を出た所でケイカを待っていたトウマが、少女が抱えてきた紙袋の多さに驚いて、聞いた。

「園のみんなからだって……感謝の気持ち」ケイカは思わずよろめいた。顔を傾けないと、相手の顔が見えない程の贈り物だった。ケイカは嬉しさと困惑が混じった顔で、袋を持ち上げてみせた。「ウメさんからも頂いちゃった。一番手前の」

「何をもらったんだい?」

 ケイカは袋を少し傾けて、トウマに中を開いてみせた。四角い箱に、湯けむりのあがる古い里の絵と温泉まんじゅうの文字が書いてあった。「こんなにたくさん家に持って帰ったら、ママが何事かと思って驚いちゃう! 学校のどこかの部屋に、うまいこと隠しておくわ。あの……そこまで運ぶのを、手伝ってくれると嬉しいんだけどなあ……」期待を込めて、上目遣いでそう言ってみる。

 トウマは目を閉じて、すまなそうに首を横に振った。

「僕の外出許可、二時間しかもらえなかったんだ。しかも監視役(おとも)付きでね」彼女が視線で示した先、園の入り口付近にある庭のテラス席には、病院の看護師の制服を着た男性スタッフがひとり、座って待機していた。「まるで犯罪者みたいだ。仕方ないか、僕はまだ狂っている最中だからね」背を見せて、自嘲気味に笑った。

「そんな風に誰も思っていないし。少なくとも私は。今日は助けてくれてありがとう」ケイカが感謝の意をこめて微笑んだ。

 トウマは一瞬、面食らったような顔をした。それからいつになく真剣にケイカを眺めた。長いまつげに囲まれた目が、瞬きもせずにケイカに注がれていた。

「そんなにバカ正直な目で見られたら、嫌味のひとつも言えなくなるじゃないか。でもね、お礼を言うのは僕かもしれない。あんな風に一度気分が滅入ってしまったら、あと一週間はベッドから出られないはずだった。ますます陽にあたらず、肌は真っ白さ。けれど僕はいま、こうしてここに立っていられてる。それを可能にしてくれたのは、君なんだ」

 思いもよらない言葉に反応できず、ケイカの目が一瞬、点になった。その後、激しく動揺がせり上がってきて、表情が維持できなくなる。「そ、そうかな……私なんて大したことは」

 トウマはケイカの言葉に思わず手を打った。「それだ! 君は僕の中で大したこと無かったんだ!」相手が聞いているか、いないかに関わらず、勝手に喋り続ける。「だから不思議なんだ。僕は自分の為だけに生きてきた人間だから、君みたいな『人のために何とかしよう』とする人間を正直、馬鹿にしてきた。なのにケイカはプライベートな場所までズカズカと入ってきて、僕の気持ちをかき回して帰っていった。でもそれが効いたんだ。これって、一種のショック療法かもしれない」

「何よそれ!」ケイカの気持ちは持ち上げられてから、一気に地に落とされた。少女はたまらずむくれた。相変わらず人の心を見ていないトウマに、ケイカは今度こそ呆れた。「じゃあどうぞ、あなたの大好きな病院(ところ)にお帰りになって下さい。私は『大したことない』お家に帰りますので」

 頬をぷくっとさせ、歩き去ろうとするケイカの行く先をトウマが遮った。

「ちょっと、まだ言い足らない? これ重いんだけど!」

 色白の少女がすっと近づいて手を伸ばした。その長い指がケイカの柔らかい顎の線をなぞる。掌が金髪と一緒に頬を優しく包み込んだ。「だから僕はもう少し、この治療を続けてみたいんだ」身をかがめると、トウマはケイカにキスをした。

 驚きに目を閉じたせいで、ケイカの視界は真っ暗になった。持っていた荷物が地面に落ちた気がしたが、少女にはその音がまったく聞こえなかった。


(治癒  おわり)
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