第44話 心の声(1)

文字数 1,960文字



 課題の中間試奏会は例年通り、本番の一週間前に実施された。

 試奏は生徒がひとりずつ、楽師のいる音楽室に呼び出されて行われた。時間はひとりあたり、約十分。その様子は本番のように皆に公開されることはなく、扉の奥で教師と生徒だけで行われる秘密の催しだった。

 時間はなかなか進まなかった。教室の中で、座り慣れたはずの椅子の上でもじもじとしているのはケイカだけではなかった。

 去年、試験を経験して乗り越えたはずの上級生も、呼ばれる順番を待つ間は同じように緊張していた。

 コンディションは己自身がいちばん良く理解している。今日までにうまく曲が仕上がらなかったり、集中できずにいる生徒たちは皆、一様に暗い顔をしていた。

 初めての経験で感触のつかめないケイカは混乱していた。試奏が始まる前は、とにかく早く呼ばれたいと思っていた。それで心が一気に楽になると考えたからだ。けれど、いま先生の部屋から戻ってくる生徒たちの青い顔や、こぼす涙を見ると、それが最善の選択では無い気がしてきていた。結局、最後に平静な顔でいられるのは、全てをうまくやった子だけなのだ。

 試奏の順番は学年の高い順に行われた。先に呼ばれたエウカリスが、教室の扉から姿をあらわした。自分のことではないが、気にならないといえば嘘になる。結果はどうだったのだろう。ケイカは目の端で先輩の姿を追ったが、エウカリスは憎らしいぐらいに感情を外に出さぬまま、席に戻った。

「ケイカ」

 ひとつ上の年齢の子が、ケイカの順番を知らせる為に名前を呼んだ。人を気にしているのは弱気な証拠だ。立ち上がって息を吸い込むと、ケイカは楽師の待つ階下に向かって歩いていった。


 正直、楽師の前でこの小節をどう弾いて、あの彩色がどうだったかなんて、ケイカにはきちんと説明できない。音楽室の扉を開けて、演じて、閉じて戻ってきた。そんな感じだった。

 自分の席にお尻をつけて初めて、どっと感情がケイカの頭の中になだれ込んできた。それも混乱の極みでしかない。

 何となくケイカが覚えているのは、音も色も外した覚えはなかったという事、いつもと同じピアノなのに感触が軽く感じられた事、先生のピアスの色が水色だった事、それぐらい。

「いかんせん情動的ではありますが」楽師が発したのは、その一言だけだった。良いも悪いもわからないけれど、練習不足の割には怒られていないのだから、ケイカは悪く考えないようにした。

 そんな思いにふけっていて、ケイカはすっかり次を呼ぶ役割がある事を忘れてしまっていた。

「ジャオ」ケイカは次の番を待っている同級生に向かって、声をかけた。

 極度に緊張しているからだろうか。サンジャオはケイカの呼びかけに言葉を返さなかった。うつ向き加減で茶色い三つ編みを揺らしながら、サンジャオは教室を出ていった。

 地下室で手伝ってもらってから、ますますサンジャオと話す機会が減った気がする。いつも明るいのがあたり前だと思っていたが、体調も含めて、あまり調子が良くないかもしれない。ケイカは友人の事が少し心配になった。

 やがて全員の試奏が終わって、何人かの生徒がこわごわと口を開き始めた。少しは笑い声も戻ってきて、教室の全体に漂っていた緊張が次第に薄まっていく。


 さらに五分が経って、役目を終えた楽師が教室に戻ってきた。先生は手に掌ぐらいの大きさの紙を輪ゴムで束ねて持っていた。人数分の生徒たちの採点用紙か何かだろうか。想像が想像を呼び、教室の少女たちの視線は否応なしに教師の手元に注がれていく。

「皆さん、お疲れ様でした。本日の結果を気にされている方もいるようですが」楽師は全員の視線を跳ね返すように言った。「今回の試奏は評価の為ではなく、皆さんへのフィードバックが目的です。今日の結果に踊らされず、あくまで本番当日に最高の演奏ができるよう、調整と研鑽を心がけて下さい」

 楽師の一言で、クラスの少女たちの表情にあった緩んだ気持ちが消え、良い意味で再度、緊張に引き締まった。彼女の言葉は、結果が良かったものはより一層の精進を、落ち込んでいる者はその暇はないのだと悟らせるに十分だった。ケイカもそれを感じたひとりだった。

 しかしエウカリスだけは、そのどちらでもない、感情のない暗い目で教師を見つめていた。彼女だけは、これから与えられる楽師の言葉をなぜか知っていて、その衝撃に自分を失わないように覚悟しているかのように見えた。

「それと最後に付け加えておきます。今回の学年課題で合格を言い渡されるのは、各学年でひとりだけです。二名が先に進むことはありません。もちろん学年で(ゼロ)人という事はありえますが。以上です。解散」

 楽師が教室から姿を消しても、エウカリスが席を立って先に帰ってしまっても、誰一人としてそこから動くものはいなかった。

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