第39話 治癒(2)
文字数 1,935文字
その年のウメさんの誕生会は平日だった。
ケイカが授業を終えて、誰よりも先に教室を出ようとした時、よりにもよって楽師に声をかけられた。友人だったらそれを振り切って逃げ、後から「呼んでたっけ?」ができたが、先生相手にそれは叶わなかった。
「先日あなた、地下の倉庫に行ったそうですね」楽師はいつもと変わらず厳しい声で、ケイカに理由を問い詰めてきた。
よりによって今日バレるんだ! ケイカは自分の運の悪さを呪った。焦れば焦るほど言い訳が上手く積み上がらず、語尾がおかしくなっていく。結局、教師から解放された時、教室にはケイカしかおらず、すでに授業が終わってから一時間が過ぎていた。
コートは羽織ったがボタンを閉める余裕はなく、マフラーは鞄に突っ込んで、ケイカは懸命に校庭を走った。三恵園の敷地に着いた時には息も絶えだえで、歩くのも辛い状態だった。
建物の中からは、いまのところ音楽も笑い声も聞こえなかった。最後の演芸の開始時間を特別にずらしてもらっていたが、それでも間に合わなかったのかもしれない。
ケイカは靴を脱ぎ捨て、廊下を走った。
はっとした。ホールに続く扉の向こうから、わずかに音が聞こえてくる。楽器の音ではないし、拍手でもない。でも知っている、聞き覚えのある声だった。ケイカは息切れと緊張で高鳴る胸を押さえ、ダイニングルームに続く扉を開けた。
おばあさんたちのたくさんの丸い背中が、視界に飛び込んできた。
天井にぶら下がるカラフルな折り紙の鎖や鶴、紙風船の装飾。ステージの中央にある横断幕には『ウメさん、お誕生日おめでとう』の文字と、両脇にティッシュで作られた白と赤の花の飾りがあった。
老人たちは誰もケイカに気づかなかった。全員が集中して、歌を聞いていたからだ。
ケイカがあらためて見る視線の先には、折りたたみ椅子に座って歌っている、ひとりの若者の姿があった。
トウマだった。
ケイカの胸に温かいものが溢れた。予想しなかった共演者の姿に、ケイカの瞳に涙が流れそうになった。
今日のトウマは性別を隠すつもりがないのか、帽子を被っていなかった。病室で見たときとは違って、長い髪は綺麗にくしけずり、両肩に垂らしていた。少しメイクをしているのか、頬や唇が紅潮して健康的に見えた。
印象的だったのは、何よりその声だった。
美しく澄んでいて、静かだった。まったく刺々しさがない。その証拠に声から出る色は、老人たちに穏やかなオレンジの輪を投げかけていた。
歌を聞く老人たちの表情も温和で、部屋は平和に満ちていた。
トウマの歌が終わると、会場から拍手が送られた。
園長が満足そうに微笑んで、老人たちにマイクで呼びかけた。「はい、ヨシコさんのリクエストでした。では十分間の休憩をはさんで、最後に私たちの可愛い先生から、生演奏のプレゼントです」
そのアナウンスでケイカに気づいた老人たちが、一斉にケイカに詰め寄ってきた。
「おーおー、待ってたよお」
「今日は来ないかと思ったさー」
「ほらぁ見てよぉ、今日は女の子のトウマちゃんだあ」
口々に喋りかけてくれる老人たちに一言ずつお詫びをすると、ケイカはすぐにステージのトウマのもとへ駆けていった。
「トウマ、来てくれたの! あなたの歌で時間を繋いでくれたのね……ありがとう。それにその髪型……似合ってる」
「……別にそんな気はなかったんだけれど」トウマは照れくさそうに髪の先をいじり出して、ケイカと視線を合わせなかった。「殴られたり、誰かに怒鳴られたりと散々な週末だった。だからここに来て、憂さ晴らしに君の困っている顔を見てやるつもりだった。でも婆さまたちにせがまれて、少し歌っているうちに、気晴らしはもう必要ないとわかった」
「じゃあもう、歌ってくれないの?」ケイカはおずおずと訊いた。
トウマは絆創膏を貼った口元をさすりながら、黙っていた。
「私はあなたの歌がまだ聞きたいし、ここにいるおばあさんたちも、ウメさんも聞きたがってると思う」ケイカは熱心に言った。「ねえ、今日トウマが歌う場所は、きっとここだよ」
トウマは黙っていたが、顔は真剣だった。ケイカの言葉を飲み込んで、
「ひとつだけ心残りがある。まだあの人だけが、僕の歌を聞かせても微笑んでくれないんだ。悔しいけれど、君の仕掛けが必要だと思う。さあ、準備しよう。ウメさんをお待たせしてはいけない」
ケイカはステージの端の、花束に囲まれた椅子に座っている老婆を見た。おばあさんは席に埋まるようにして、口をモゴモゴと動かしていた。風邪も治り、体調はすっかり元気そうだった。
「うん!」ケイカは元気に返事をした。