第32話 理由(2) |
文字数 1,186文字
ケイカの見つけた楽譜は、約七十年前に作曲されたものだった。
写しとはいえ、それ自体も紙がだいぶ傷んでいた。翌日、ケイカはそれを慎重に手に取り(大丈夫、少し借りただけだから)、ダイニングルームのテーブルの上に広げた。
まずケイカを驚かせたのは、その曲が伝統ある古典でも何でもなく、ただの唱歌だったことだ。技巧的な特徴は殆どなくて、楽器を習い始めた子供でも弾けそうなシンプルな曲。これが正式な場で、天子様に捧げられていた場面など、とても想像できない。
「こんなの、楽師に見せたらどんな顔するかな」ケイカは想像して、くすりと笑った。実際に音を紡ぎ出しているイメージを瞼の裏に浮かべて、ケイカは譜の上に手を広げて置いてみた。「でも美しい曲だわ……とてもいい色が出そう」
そしてケイカが最も目を疑ったもの、それは五線の一段下に並べられていた文字の列だった。通常、色楽が演奏する曲の中では、絶対にあり得ないものだった。
「嘘みたいだけど、これって……歌詞だ」ケイカはその流れるような文字の続きを指でたどりながら、ゆっくりと声に出してみた。一体感。そうだ……これは生まれた時から歌なんだ。ケイカには、最初からこの曲が詞を念頭に作られている事がわかった。言葉と旋律は互いを邪魔せず、とても温かく手を取り合っていて、心地よい。ケイカがやすらぎを感じる理由が、そこにあった。
ケイカはいま、色楽のどんな難しい課題曲を見た時よりも強い欲求を覚えていた。ウメさんにも聞かせたいけれど、私自身が一番これを演奏して、聞いてみたいと思っている。
それに必要なのは、私だけじゃない。ケイカには考えなくてもわかっていた。私は演奏する。色を出す。ウメさんが聞いてくれて、そして、この詞を歌い上げる者がいる。
ケイカがたどり着ける人物は、たった一人しかいなかった。
「すみません!」
ケアセンターの受付窓口から体を半分乗り出すようにして、ケイカは職員を探した。こういう時に限って、人は見つからないものだ。
あたりを見回して、食堂から直接出入りができる中庭の辺りに、人影を見つけた。ケイカは小走りになってそこに行き、外に通じる重いガラスの扉を押す。
「ごめんなさい、聞いていいですか?」
「はい、どうぞ」花壇の側で車椅子を支えていた女性スタッフが気づいて、顔を上げた。
「今日、トウマ来ていましたか?」
「そういえば、ここ数日見ないわね。だいたい週末には必ず姿を見せるのに……」
必要とする時に限ってあらわれないなんて、気まぐれなトウマらしいと、ケイカは思った。
「トウマはいつもどこから来るんですか?」質問してすぐに自分で答えていた。「あ、そういえば言ってたっけ。病院?」
「そうね、あの子の病院はホームのすぐ近くよ。行ってみる?」
ケイカはうなずいた。早くこの曲を聞きたかったし、何よりトウマにこの楽譜の存在を知らせたかった。