第53話 お土産(4)

文字数 1,484文字



 ぐっと全身に力をこめたその時、壁際でガシャンと大きな音がした。

 何かが床にあたり、砕け散ったような物音に驚いて、ケイカは反射的に手を下げて、椅子から立ち上がっていた。

「な、何?」

 それまで止まっていたケイカの心臓と肺が、今になって激しく動き始めた。急に流れた血が一気に体を巡る。ケイカは酸素を求めて、激しく咳き込んだ。

 荒い息を繰り返してようやく回復したのちに、乱れた前髪の間から音の鳴った方を見つめる。壁のすぐ脇だったので、暗くて何も見えなかった。彼女はおそるおそる、部屋の奥の大型楽器の裏側へと近づいていった。

 そこに落ちていたのは額縁だった。絵自体を支えていただろう紐の結び目が外れ、木枠にだらしなくぶら下がっていた。落ちた衝撃で、額にはめ込まれていたガラスが割れて、床に飛び散っていた。

 ケイカはそれを拾い上げようと身をかがめたが、横に倒れた額縁の隣に、紙袋が置いてあるのを見つけた。

 先に取り上げた額縁をマリンバの上に置いて、続けて紙袋の紐に小指をかけて拾った。

「あ……」

 あらためて引っ張り出してみて気づいた。その紙袋と中身は老人ホームの皆に、あのウメさんに向けた演奏の礼として渡されたものだった。

 家に持って帰れないので学校に隠しておくと、ケイカ本人が言ったのだ。それでいて教室に置く場所はなく、うろうろした挙げ句、この場所に放置して、すっかり忘れてしまっていた。

「……あれ?」

 一番手前、ウメさんのだと言って渡された袋の膨らみ方に違和感を覚えたケイカは、残りを床において、そのひとつだけを持った。手を入れて中身を取り出してみる。あの時にも確認した絵柄の温泉まんじゅうの箱があって……

「あ……」

 中身は三恵園でトウマにも見せたのだけれど、ケイカはそこに折りたたまれた何枚かの紙片を見つけた。少し暗かったせいもあったし、二つある箱と箱の間に隠れていて、あの時はまったく気づかなかった。

 どれも相当に古いのだろう。黄ばんで角が欠けていた。傷みが酷いものは千切れかけ、それをテープで何とか修復していた。ボロボロになった紙の一枚を、ケイカは丁寧に広げていった。そこに現れた内容を見て、ケイカは息を呑んだ。

「これって……まさか……」ケイカの指に挟まっていたボールペンが、床に落ちて転がり、カラカラと音を立てる。

 ケイカの震える指の先が、紙面の上を丁寧になぞっていく。それに合わせるように少女の口が自然と動いていき、音の輪郭を形作る。

「ああ!」ケイカは叫んだ。楽器を通してではなく、指と想像だけを通して、頭の中にはっきりと調べが響いてきた。「なんて素朴なんだろう。どうしてこんなに優しくて、心が落ち着くんだろう……」

 ぽたりと一粒、紙片の上に水の(たま)が落ちた。ケイカは泣いていた。ここ数日悩み思い抜いたのに、一滴も流れなかった涙の(しずく)がこんなに熱いとは。

「知らなかっただけなんだ。こうして歌はずっと昔から、ここにあったのに。人の心だけが移ろい、変わっていったんだわ……」

 ケイカは続けて流れてくる涙を押さえられなかった。自分が追い求めていた、格式ばった決めごとの全てが恥ずかしくなった。ケイカは思わず顔を伏せた。

 ケイカは紙を撫でていた指を、ゆっくりと引っ込めた。そのまま掌を胸にあてて、心で聞いたその歌を体全体に染み渡らせるように味わった。

 再び体に滋養が戻ったように、少女の目に光が戻ってきた。

 ケイカは先ほどの古い紙片を手に、ピアノの前の椅子に座った。折り目を伸ばしたその紙を譜面台に広げると、ケイカは埃の積もった鍵盤の蓋をゆっくりと開いた。


(お土産  おわり)
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