第64話 結び~老楽師の回顧録(2)
文字数 809文字
「あなたはそうやって、微笑んでいらっしゃる。私が真面目に意見したり、怒って反論したりしても、いつもそうだった」
絵に向かって語りかける楽師の声は、どの生徒たちや職員も聞いたことが無いぐらい、優しいものだった。
「もっとも、私と会話をする者など少なかったですがね。男性なのに色が見えるという異端児の
楽師は昔を懐かしんでいるのか、穏やかな顔でしばらく口を閉じていた。けれどここに来た理由は旧友との思い出にふける為ではない。
それを思い出して、溜息を漏らした。「あなたのイタズラで我ら色楽は貴重な人材を失いましたよ。まったく……そのお姿で、どう責任を取って頂けることやら」
楽師は窓際まで歩くと、外から照りつける月を見上げた。
「何度も意見を交わしたではありませんか。わたくしは特別な力を持つ歌姫を作りたいのではないと。歌は感情や人の能力に左右され過ぎるのです。だから器を……多少未熟なれど極力、感情を伝えない器による編成の色楽隊を作り上げたのです」
老楽師はそこに話しかける人物がいるかのように、無念そうにかぶりを振った。
「あなたには理解されず、例え私たちの仲が永久に
彼女はそのまましばらく言葉を発しなかった。
空にひとつだけぽつんと浮かんでいた黒雲が、太った弓形の月の上に覆い被さった。部屋に暗闇が訪れた。それもわずかな時間で、やがて雲は移ろい、ふたたび音楽室は白銀の世界に戻った。
じっと動かずにいた老楽師が踵を返した。その勢いで彼女の顔から、黒い額縁の表面に一滴の雫が落ちて、ごく小さな染みを作った。
老楽師は額縁を手に取り、ゆっくりと窓のカーテンを閉めた。
「天子様の名にかけて、私はこれまで通り、自らの色楽を推し進めます」
老楽師はその言葉を最後に音楽室を出て、廊下の先の暗闇へ歩き去っていった。
(シキラク(色楽)第1部 ケイカ おわり)