第9話 老人1(5) 

文字数 1,650文字

「ええと……はい。指を動かしていただけです」

「なぜ窓を開ける必要が? 前から言っていますが、器に無駄な湿気を与えないでください」

「……はい」

 老楽師は年齢を感じさせないしっかりとした足取りで、ケイカの前に立った。獲物の様子を伺う猛禽のように、目を伏せている教え子の顔を左右から覗き込む。

「教室にいた時からですけれど、顔色がすぐれません。帰ってしっかりと体調を整えなさい」

 老楽師は相当な年だが子供はいないと聞いた事がある。けれどこの人を相手に隠し事をするのは、母親を相手にするよりも難しいとケイカは悟った。

「これは何でしょう」

 教師の手の動きは素早かった。ピアノの上で半開きになった鞄に手を入れ、色豊かに印刷された本を取り出した。サンジャオの少女漫画だった。

 ケイカは音にならない舌打ちをして天を仰ぎ、うんざりと目を閉じた。あの馬鹿ジャオ!

「あなたがどんな本を読もうと構いませんが、そんな元気があるのなら、今すぐ考える事があるのではないですか? そもそもこんな物が音楽室にあってはなりません」

 楽師は本を手に持ったまま、ピアノの脇を通り、開いている窓に向かって歩いて行く。

 ケイカの心臓は高鳴った。先生は漫画を外に投げ捨てるつもりだろうか。彼女の怒りが凄まじいのはよく知っているが、それは授業中の話だ。日常の注意でそこまで乱暴に振る舞うのを見た覚えがない。

 しかしケイカの注意は本ではなく、別の所に向いていた。何か言いたげに足を一歩出すが、ためらって代わりに拳を握りこんだ。窓の外にはまだ、あの朗らかな笑顔の用務員がいるはずだった。彼はまったくの部外者であるのだが、この冷たく青い怒りの炎を吹き出している今の先生にひと睨みされようものなら、免疫のない老人の心臓は一気に凍りついてしまうに違いない。

 ケイカは老人に何の義理もないが、年配を敬う気持ちだけはしっかり持っていた。

「先生! あの!」

「何ですか、ケイカさん」答えつつも、楽師の足はまだ止まらない。

「私の色がいまいち、安定しない件につきまして! ええと……感情と色楽の関係をあらためて復習したいと思うのですが……お話を聞かせて頂けないでしょうか?」

 楽師の踏み出した足が止まった。ほとんど窓枠に手が届く場所だった。彼女は黙ったまま目線だけを動かして、校舎の外を二度見した。そのあと機械的に手を伸ばし、窓と鍵をぴしゃりと閉めた。

「職員室にいらっしゃい」楽師はそれだけ言うと、手に持った本をピアノの上に投げ置いて、先に出口の方へ向かっていった。

 音楽室のドアが閉まる音を聞いて、ケイカはようやく拳をほどいた。締め付けたせいで、中指と人さし指の色が赤と白の斑模様になっていた。

 膝の裏も痛かった。脚の力を抜いた途端に、ケイカはへなへなと崩折れた。良かった……漫画も返してもらえたし、おじいさんも救われた……と思う。ただしケイカのこの後の時間が犠牲となった。それでも好きな夕方のテレビ番組を観るのを、諦めた甲斐はあったかもしれない。

「おじいさんは?」足を引きずるように際まで歩く。窓は開けず、ガラスに張り付いて外を眺めてみたが、老人の姿はもうそこには無い。「帰ったんだわ……」

 ケイカは屈伸をして足をほぐすと、二人分の鞄を持って音楽室を出た。これから少女を長い拘束が待っている。

 どうせ家に戻っても課題は何も進まないだろうから、今日やれる事があったとしても、半ば諦めていた。

 廊下を進みながら職員室につくまでにも、足が重く感じた。何だか今日は色々な事があったなと、ケイカは一日を振り返った。

 ケイカは知らなかったが、まだその日の出来事の全部は、終わっていなかった。

 結局その日ケイカが家に着いたのは、夜の七時を回った頃だった。母親に遅くなった理由を尋ねられたが、適当にはぐらかしておいた。

 そう、別に真実を教える必要はない。

 鞄が見つからずに泣きべそをかいていたサンジャオを、慰めながら家まで送った事はケイカの胸の奥にしまっておいた。


(老人1  おわり)
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