第16話 歌い手1(3)

文字数 1,421文字


 窓ガラスをノックする音がした。続いてもう一度、今度は少し強めに。

 ケイカは二度目の振動に気づいて、鍵盤を叩く指を鎮めた。

 きっと、あのおじいさんだ。ケイカは逆光を掌で遮りながら、窓の前に移動した。

 彼女の予想は外れた。そこにいたのは老人ではなく、小太りの中年の女性だった。それだけではなく、ケイカはその女性をまったく見たことがなかった。少女は動揺した。女性が鍵の部分を指して促したので、ケイカは窓の錠を開放した。

 ようやくという感じで女性の顔が明るくなった。「あなたがケイカさん?」

 ケイカは黙ってうなずいた。

「ああ、やっぱり。おじいさんの言ったとおりだわ。長い金髪の可愛いお嬢さん」女性は嬉しそうに手を叩いた。「わたし園の方から来ましたの」

「園?」

「あなたを迎えにね。おじいさんからは昨日、あなたに話を通してあると言われたわ。聞いていないかしら?」

「いえ……おじいさんからはその……聞いていますけれど」ケイカは言いよどんだ。一部は合っているが、他に聞いていない色々がありそうだった。

「でしょう! 良かったわ。ではさっそく向かいましょうか。あなたの準備をしていらして。あちらの校門の所で待っているわね」

 上品な口調で用件を伝えると、女性は校庭を横切るように行ってしまった。

 ケイカは突然の事でついていけず、しばらくその姿が小さくなるのを見守っていた。


 あわてて準備したせいで、ケイカの立ち姿は髪の整え方からマフラーの巻き方まで、めちゃくちゃだった。

 校門で待ち合わせた二人は敷地を出て、学校の高い壁沿いに進んで行った。

 相手に悪い人の雰囲気が無かったのでまだ良いが、ケイカは自分がどうしてこの見知らぬ人に付いて歩いているのか、不思議でならなかった。

 人を待たせているという罪悪感に、つい勢いに流されてしまったのかもしれない。ケイカは悪い癖だと反省した。

 女性が進む方道は駅からもバス停からも逆向きで、普段ケイカたち生徒が行ったことのない方角だった。何度か道を曲がっていくうちに、すぐに学校の壁や建物が見えなくなった。

 五分もすると道は細くなり、一気に見知らぬ土地の感じが増した。

 どこに行くのだろうと、そろそろ疑問を口にしてもいい頃だ。ケイカがそう思って息を吸おうとした瞬間に、中年の女性が振り向いて言った。

「ここよ、お嬢さん」

 中年の女性が声で示した先に、二メートル程もあろう黒いアーチ型の門が見えた。門扉(もんぴ)には木で出来た看板がぶら下がっていて、白地に黒の楷書で『三恵園』とあった。

 学校のすぐ近くにこんな場所があったなんて、ケイカは知らなかった。

 門には鍵がかかっていない。ケイカと女性は簡単に敷地へ足を踏み入れた。広い芝生の中央にある舗装された路を進み、どことなく教会のような雰囲気の建物の中に案内された。

 横開きの扉をスライドさせると、両壁に手すりのついた間口の広い玄関に繋がっていた。スリッパやサンダルが大量に置かれていて、爪先の傷やすり減り具合から、どれも相当の年季が見て取れた。

 外観から比べると中はかなり新しく、床材や建具など内装はかなり綺麗だった。白を貴重とした色合いが、ケイカにはまるで病院のように見えた。

 玄関の奥に木の扉の付いた壁があって、その向こうから大勢の人の喋る声が漏れていた。

 古いスリッパに履き替え、案内されるまま廊下を進んだケイカは、壁の向こうに通されて初めてこの建物の正体に気づいた。

「老人ホームだ……」

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