第18話 歌い手1(5)
文字数 1,602文字
混線する二人の会話に、通る声が割って入った。ステージの方からだ。アップライトピアノと長いカーテンの影になっていたせいで、ケイカはそこに人が座っていることに気づかなかった。
ケイカは目を細めた。
遠目で見た限り、その人物はすらっとしており、老人でも中年でもなかった。声の主はベージュのパーカーを着て、その上に灰色のジャケットを羽織っていた。ラフなGパンとシンプルなスニーカー。髪の毛が明るい茶色に見えたのは、おでこから後頭部までを覆う大きなニットキャップを被っているせいだ。同じ部屋にいるとはいえ、距離が離れていたので、確認できるのはそこまでだった。
確かにケイカの名前を呼んだ。だったら家族とか学校関係のはずなのに、ケイカにはまったく覚えがない声だった。
「皆さん。先生が何でも好きな曲を演奏してくれるって言ってますよ。ぜひリクエストをお願いします」声の主は居室中に響くように手を打ち鳴らし、老人たちの注目を集めた。いつでも準備ができている事を示すためピアノの覆いを取り、鍵盤の蓋を開いた。
「ちょっと!」ケイカは反射的にムッとして声を荒げた。相手の追い込み方がいやらしい。
「あら本当?」それに乗っかる園長も、なかなかどうして天然だった。「じゃあ皆さん、考えていた曲を紙に書いてくださいね。はい、スタッフの皆さんはテレビを消して、演奏を聞く準備をしてさしあげて!」
テキパキと指示を出しながら、園長はいつの間にか、ケイカの鞄や上着を勝手に受けとって、近くの椅子にまとめて置いてしまった。おばさんの厚い手が、ケイカの背中を優しく押してピアノの前に行くよう促してきた。
歩くのをためらっていたケイカだったが、だんだんと抵抗が弱まってきた。全部あのおじいさんのせいだわ、と恨めしく思うが、不満をぶつける相手が今はここにいない。
ケイカはしぶしぶとテーブルの間を進んだ。途中、老人たちが優しい声をかけてくれる。ひきつった愛想笑いをしながら、ケイカは部屋の中へと歩いていった。
ステージの上では、ケイカを罠にはめたもうひとりの人物が待ち構えていた。恩着せがましく
ケイカは何でもいいから思いを込めて、相手を睨んでやろうとした。けれど相手の容姿に気づいて、はっと息を飲んだ。
近い距離まで来た為、その人の顔がしっかりと見えた。ケイカより若干年上のようだが、男性だった。かなりの短髪なのだろう。茶色の帽子の縁から髪の毛が見えなかった。長い睫毛の下の意思の強そうな黒い瞳がこちらを見返していた。頬や唇の血色が悪く、全体的に顔色が極端に薄く見えた。
色々と観察してしまったが、相手が男の子であることには間違いない。遅れてやって来た緊張の波に、ケイカの鼓動が早まった。免疫のない少女は、触れそうなぐらいの距離の近さにいる異性を前にして、言葉が出てこなかった。
「なんだか緊張しているみたいだけれど、そんな必要はない。僕は離れて見ているから。あなたのやり方で、いつもみたいに弾けばいいよ」彼は証明するようにすっと身を引いて、ステージを降りていった。
園長がマイクを手にステージ上にやって来た。もう片方の手にはリクエスト曲の書いてある四角いカードを持っている。
立ちん坊だったケイカは、男の子が離れたので、ようやく椅子に座ることが出来た。そこで忘れていた息を大きく吸い込んだ。
もうこうなったら仕方ない。あとは弾くしかないとケイカは覚悟を決めた。幸いケイカは幼い頃から人前で演奏する機会を何度も経験してきている。覚悟さえあれば、心はまもなく落ち着いてきた。
緊張がやわらぐと、あたりを見回したくなる。泳いだ目は意識しないうちに先ほどの子を見ていた。少年は部屋の壁に背中をもたげ、眠るように下を向いていた。腕を組んだまま、演奏が始まるのを待っているようだ。
「では皆さんご静粛に。最初の曲は――」