第5話  老人1(1)

文字数 1,647文字



 ケイカが目を開くと、そこは学校の保健室のベッドの上だった。清潔なリネンの手触りを感じる。何とか生きているみたいだと息を吸ってみると、かすかに消毒液の匂いがした。

 蛍光灯が消えているが、ケイカには周囲の様子が確認できた。静かで周りに何も音はない。なのに天井に、もやもやとした粒子の雲とチカチカが点滅している。現実だろうか? 目を狭めて雲にピントを定めても、薄暗くてはっきりせず、判別ができなかった。

 きっとただの錯覚に違いない。彼女は心を落ち着かせるために、いちど目を閉じた。

 ケイカたちのような共感覚を持つ者が見る色は、個人ごとに若干見え方が異なるし、いちばん影響されるのは感情の動きだという。そのため視界の中で、色はより強調されたり、弱目に優しく感じられたりする時がある。あまりに心が不安定な時は、今みたいに聞こえもしない音を頭が勝手に処理して、眼の前に錯覚が作り出されたりする。

 普通の人にも、感情を決める根っこのひとつに体調があるわけで、いまはケイカの体の調子は真っ逆さまで最悪なのだから、少しぐらい滅茶苦茶で説明がつかなくても仕方ない。たまにはお化けやイケメンが見えたっておかしくはなかった――まあ二つとも色じゃあないけれど。

 今の時間は何となく、放課後だろうと思った。目を開けて天井のシミを数えていると、光が差し込んでくる方角から、部活の生徒たちのランニングの掛け声が聞こえた。どうやら雨はあがったようだ。

 こんな風に耳だけに聞こえて、目で音の発生元を見ていない場合は、色が出てこない事が普通にある。音が小さいせいもあるけれど、これは色聴(しきちょう)者にしかわからない感覚だった。

 そんな思いに意識を取られていた為、ケイカは自分がここに寝ている理由を考えることを忘れていた。

「ん……」

 眠そうなうめき声。自分ではない。そういえば先ほどから、腰の付近に重さを感じていた。

 ケイカは首だけをそろそろと持ち上げ、腰のあたりを見てみた。リネンの上で両腕を枕にしてすうすうと眠っている、サンジャオの小さくて茶色の頭とつむじが見えた。

「やっちゃった……」彼女は再び枕に頭を戻して呻いた。手の甲を持ち上げ、おでこに添える。掌と腕に加え、やってしまった事の重みが頭に強くのしかかってきた。

 上級生とやりあって、勝手に倒れて、サンジャオに看てもらって――何してるんだろう、私。自分を殴って済むならそうしてやりたい。けれどその前に、ケイカにはいま頭にある鈍い痛みに耐えられる自信すら無かった。

 ケイカはようやくベッドから起き上がった。サンジャオを目覚めさせないよう、細心の注意を払って足を一本ずつ毛布から引き抜いた。

 ベッド脇に立ってスカートの皺を直し、埃をはらった。

 気を失った時にぶつけたせいか、片膝が赤くなっていて、しくしくと傷んだ。

 すぐ脇のテーブルに、薬が二粒と中身の入った紙コップが置いてあった。「起きたら飲んで」とメモが添えてある。横になったおかげで、ケイカのお腹の痛みは落ち着いてきていたが、ありがたく錠剤をひとつ含んだ。湯冷ましの優しい感じが口の中に広がった。

 保健室には当直の先生の姿はなく、自分たちの他は誰もいなかった。ケイカはベッドの毛布の一枚をサンジャオの肩にかけ、部屋をあとにした。親友を置いていくわけではない。カバンを取りに教室に寄ってから、迎えに来るつもりだった。

 職員室に近い廊下はあまり来ない場所だったので、ケイカは落ち着かなかった。通路を進んでいくと、広い階段が見え、そこを三階まで上がればそこが色楽者たちの教室だった。

 ケイカは誰もいない教室に入り、最初に自分の机に向かった。脇のフックにかけていた自分の鞄を持ち、振り向いて一番前のサンジャオの所まで来る。クラス最年少の少女の席はどこか淫らで、汚らしい。校則で禁じられている少女漫画の背表紙が、机の中からはみ出して見えた。

「ガキンチョ」ケイカは溜息をついて、それらをサンジャオの鞄に乱暴に放り込むと、さっさと部屋を後にした。

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