第21話 歌い手1(8)
文字数 957文字
ケイカの三度目のピアノが鳴り出した。今度もきちんと色を乗せるやり方を踏襲して弾くのを忘れてはいない。
前奏が終わり、いよいよメロディに移ろうかという時、若者が胸に手を添えて息を吸い、大きく胸を膨らませた。
ケイカはその瞬間の音と色を、いつになっても忘れられなかった。
若者は歌っていた。口を開いて、喉を震わせて。高くも低くも自由な心地よい声が、ダイニングルームの床から天井にまで響き渡っていた。
それはケイカが色楽となる運命を刻まれてから、初めて聴く「人」の歌声だった。
ケイカははっとして、あの老女の方を見た。
彼女は相変わらず、笑っても泣いてもいなかった。けれども自分の演奏を聴かせた時と違う反応があった。
老婆は何かを言っていた。開いてはいないが、モゴモゴと口を動かして、独り言を喋るように。
その唇が動く調子は、ケイカの演奏のリズムとしっかり合っていた。少しかも知れないが、先ほどは伝えられないものが老婆に通じたのだと、ケイカは嬉しくなった。
けれどもきっかけは、男の子の歌だった。彼が出した美しい声が老婆の重い心を開いたとしか思えない。もしかしたら彼女はケイカの曲ではなく、男の子が出すメロディをなぞって「歌って」いるのかもしれない。
ケイカは愕然とした。少女にはできなかった事を、彼はやすやすとやってのけてしまった。
やがて彼の歌が止み、遅れてケイカのピアノの伴奏も終わりを告げた。
今度の拍手は起きなかったけれど、老人たちはみな目を閉じて、その童謡の世界の風景の中に入ってしまったように、穏やかな顔をしていた。
ケイカは余韻の全てを体感したくて目を閉じた。この不思議な感覚はなんだろう。ケイカの心はここ数日なかったほど静かになり、安らぐのを感じていた。初めて聞いた彼の歌声が、ケイカが鳴らしたピアノの音さえ包み、優しい大気となってあたりに充満しているようだった。
すべてがケイカにとって初めての経験だった。少女は目を開いて、ステージの中央に向かってそっと聞いた。
「あなたが、おじいさんの言う『歌い手』だったの?」
虚ろな目と火照った顔のケイカに向かって、若者は眉を持ち上げて肯いた。我が家に大事な客を招待する執事のようなポーズを取り、彼は言った。
「歌の世界へようこそ、ケイカ」
(歌い手1 おわり)
前奏が終わり、いよいよメロディに移ろうかという時、若者が胸に手を添えて息を吸い、大きく胸を膨らませた。
ケイカはその瞬間の音と色を、いつになっても忘れられなかった。
若者は歌っていた。口を開いて、喉を震わせて。高くも低くも自由な心地よい声が、ダイニングルームの床から天井にまで響き渡っていた。
それはケイカが色楽となる運命を刻まれてから、初めて聴く「人」の歌声だった。
ケイカははっとして、あの老女の方を見た。
彼女は相変わらず、笑っても泣いてもいなかった。けれども自分の演奏を聴かせた時と違う反応があった。
老婆は何かを言っていた。開いてはいないが、モゴモゴと口を動かして、独り言を喋るように。
その唇が動く調子は、ケイカの演奏のリズムとしっかり合っていた。少しかも知れないが、先ほどは伝えられないものが老婆に通じたのだと、ケイカは嬉しくなった。
けれどもきっかけは、男の子の歌だった。彼が出した美しい声が老婆の重い心を開いたとしか思えない。もしかしたら彼女はケイカの曲ではなく、男の子が出すメロディをなぞって「歌って」いるのかもしれない。
ケイカは愕然とした。少女にはできなかった事を、彼はやすやすとやってのけてしまった。
やがて彼の歌が止み、遅れてケイカのピアノの伴奏も終わりを告げた。
今度の拍手は起きなかったけれど、老人たちはみな目を閉じて、その童謡の世界の風景の中に入ってしまったように、穏やかな顔をしていた。
ケイカは余韻の全てを体感したくて目を閉じた。この不思議な感覚はなんだろう。ケイカの心はここ数日なかったほど静かになり、安らぐのを感じていた。初めて聞いた彼の歌声が、ケイカが鳴らしたピアノの音さえ包み、優しい大気となってあたりに充満しているようだった。
すべてがケイカにとって初めての経験だった。少女は目を開いて、ステージの中央に向かってそっと聞いた。
「あなたが、おじいさんの言う『歌い手』だったの?」
虚ろな目と火照った顔のケイカに向かって、若者は眉を持ち上げて肯いた。我が家に大事な客を招待する執事のようなポーズを取り、彼は言った。
「歌の世界へようこそ、ケイカ」
(歌い手1 おわり)