第52話 お土産(3)
文字数 1,331文字
空だった。白い紙の束が入っていたが、今は不在だった。そこにはウォールナットの裏板だけが見えていた。
「あ……」とそれだけ、声が出た。いつもの自分なら一気に冷や汗が出て、混乱したに違いない。けれど今のケイカは妙に心が冷めたままだった。
他の生徒の引き出しも開いてみたが、ケイカの色譜が紛れ込んでいることなど、万が一にもなかった。ケイカは最後になる引き出しを閉め終えた後、ふらふらとよろめいた。
「まいったな、これ」言葉の意味とは反対の、自嘲的な声だった。勝手に心の奥の方からせり上がってくる暗い笑いを、ケイカは止められなかった。
自分が無くしたとは思えないし、それはあり得なかった。
この引き出しを触るものはたくさんいるけれど、今まで鍵がかかっていた事など一度も無い。だからどの中身でも持ち去ろうと思えば簡単にできた。しかしそれを不備として指摘する者はいなかった。どの生徒も自分の事で精一杯で、誰かの物をどうこうする余裕などなかったからだ。それに色楽たちは純粋で、これまで悪意とは無縁の世界で生きてきた。ケイカだってその一員だったと思っていた。
どんな手を使っても――
ケイカの体がふらついて、ピアノの側面にぶつかった。何とか手探りで体を支え、足に触った椅子に座り込んだ。
この短い期間で、ケイカはたくさんの色を見た。今まで見たことがない美しい色、心をどこまでも温かくして幸せにする色もあった。けれど裏側には陰湿な影が忍び寄っていて、それは私を飲み込んで、全部の色彩をごちゃごちゃに混ぜて吐き出した。私の心は黒を通り越して、いまや透明になってしまった。
それにしても、どこまで落ちるのだろう。ケイカは乾いた心の中で虚しさを反芻した。友達を失い、真っ白で美しい星のような人も失った。その上、音も色も手放せというのだろうか。ここに来て残酷な運命の神様は、一切手を抜こうとしていない。
このままさらに足を踏み出しても、いま疼いている傷みの延長しか得られないのかもしれない。それならもう立ち止まってもいいのではないか。ケイカの内なる声が優しく言う。そうかもしれない。どうせ駄目なら、決着ぐらい自分で選びたいよ。
ケイカがだらりと垂らした指の腹に、何か固い物があたった。覚えがない。ブレザーのポケットに手を突っ込むと、そこにはペンがあった。ケイカは取り出したその細い物を無感情に眺めた。
ボールペン、側面にトウマの病院の名前がプリントされていた。それは誰が用意したわけでもない。自分が病院で拾い上げたペンを持って帰ってしまった。落ちた拍子でキャップが無くなっていて、金属の芯がむき出しになっていた。
「何も見えなくなったら、諦められるかな……」
ケイカは細い指を組み換え、ボールペンを逆さまに握り直した。ゆっくりと顔の前に持ち上げ、鋭く尖るペン先を熱の帯びた目で見つめた。
「これでサンジャオ、許してくれるかな。逆に嫌われたりして……パパとママ、怒るだろうな」涙目になっていた。もう誰が声をだしているのかも、分からなかった。
ケイカはもう片方の手をペンの反対側の端に添えた。芯先を緑色に輝くケイカの虹彩のすぐ近くにまで持ってくる。こんな時なのに、ケイカの心は全然怯えていなかった。