第60話 ケイカの歌(2)

文字数 1,319文字


 ケイカは複雑な装飾の扉を閉めると、玄関からレイナの家の庭に出た。瀟洒(しょうしゃ)な建物と高級車の並ぶ駐車場の間を歩き、かなり歩いてからようやく敷地の外の道路に出る事ができた。

「大きい家だな……」ケイカは何度来ても思う感想を、また口の中で言った。

 レイナのように色楽の道で失敗し、心を病んでしまった少女は、実はこの世に何人も存在していた。ただこういった子の親は、ほとんどが資産家であるので、娘の治療は極秘裏に行われていた。よって「共感覚の異常による精神疾患」という症例自体、一般にはもちろん、医療関係者でもあまり知られていないのが実情だ。

 ケイカがレイナのような少女の家に行き、歌を教える機会を持つことになったのは、ある誘いがきっかけだった。

 大学に進んだケイカが、これまでのように老人の(その)で演奏していた時、園長から声をかけられた。

「ケイカさんに、ぜひ自宅に来て欲しいという申し出がありましたの。その方、あなたの曲をどうしても娘さんに聞かせたいと仰っていて……」

「あの、なぜ私なのでしょうか?」相変わらず優しい物腰の園長の頼みを、ケイカは最初から断る気はなかった。質問を返したのは、ただ知りたいという理由からだ。「私よりも上手な方が、近くの学校に大勢いると思うのですが」

「その学校の関係者が、あなたを強く推したらしいのよ」園長も困惑しているようだった。「それが誰なのかは聞かないでね。私にもわからないの」

 色楽の道から外れてだいぶ経つケイカだが、彼女は園で歌うことを一種の民間療法のように考えていた。医学的な根拠や治験は何もない。ただ確かなのは、歌を届けた相手からの感謝の声。それだけがケイカを支えていた。自分を救い、トウマを救ったこの曲と歌。名も知らない誰かに届けることを、ケイカは自らの使命のように考えていた。

 かといって喧伝した覚えはないのだが、いまではホーム関係者からの誘いで、ケイカが他の園に歌いに行く機会が増えていた。

 そうした活動が人づてに伝わったのだろう。ケイカは光栄にも、レッスンという形で何人かの生徒に歌を教える身分に収まっていた。

 どの子も幼い頃から才能を見出され、色楽を目指し、そして挫折した経緯は同じであった。そして最初から精神がひどく病んでいるケースが多かった。

 彼女らと接してみてわかったのだが、真面目な子ほど、そして優秀な感覚を持つ少女であればある程、失った希望への反動が大きかった。

 幸いなことに、ケイカは今でも、共感覚を持ち続けることが出来ていた。

 けれどあの学年課題の最後の日に、一時的な色の喪失を味わった経験がある。あの時は楽器にだって触れる気がしなかった。だからこそケイカは少女たちの辛さが理解できたし、その渇望を歌が支えてくれる感覚を教える事ができた。

 そうして人に歌の重要性を説きながら、虚しさが押し寄せる時がある。この気持を育むのを手伝ってくれた、あの人――『冬馬(トウマ) 由美』。彼女は学年課題の日を最後に、私の前から去ってしまった。

 喪失は大きかった。でもその人が残してくれた暖かい色は、こうして今も見える。ウメさんのように、年老いた私の目から色が去る時が来たとしても、心の色までは消えることはないだろう。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み