第6話  老人1(2)

文字数 1,787文字



 階段を降りた爪先が、一階のタイルを踏んだ時、彼女は前に来た保健室とは反対側の通路を、なんの気なしに見た。

 長い廊下が続き、その突き当たりに頑丈な作りの扉が見えた。その部屋の用途をケイカは知っていた。

 この学校には二つの音楽室がある。片方は通常の生徒用、もうひとつが色楽クラス専用の設備になっていた。彼女が見ているのは後者だった。

 そういえば今日は楽器に触っていなかったな……

 ケイカは二人分の鞄と巾着を持ち直すと、誰もいない廊下の真ん中を歩いていった。

 音楽室の前までたどり着くと、重い扉を肩で押して部屋に入った。

 狭く短い通路を抜けると、部屋は奥にぐっと広がっていた。

 毎日演奏され、手入れされている楽器たちが見える、特に大きなコントラバスや打楽器などは、部屋の奥に太陽光に当たらないように並べられていた。

 壁の少し高い所に、偉大な楽師たちの肖像画が飾られていたが、いまは埃を被っていて、光の加減でそれぞれの顔がよく見えない。

 予想していたとおり、部屋の中には誰もいなかった。ケイカは部屋の明かりを点けると、部屋の奥へと歩いていった。

 穴の空いた多孔質の壁の前を進み、自分がいつも愛用しているグランドピアノの前に立った。

 上蓋はそのまま開けずに、ケイカは持っていた荷物をその上に置いた。覆いを外し、鍵盤だけを叩いて曲でも何でも無い単音を出してみた。

 きちんと調律され、温度も湿度も最適なこの部屋では、器が不調であるという事は滅多にない。だからこうやって今も美しい音が響いているのだけれど、色に関して言えば、はっきり言って全く安定していない。同じ白鍵を叩いているはずなのに、綺麗な純色であったり、濁って見えたりしている。ひどい時には定着化(スタビライズ)せずに、色が瞬いたり、パターンが欠けたりする。

 自分が感じているイメージすらこうだとしたら、他人にはどんなに不細工に映るのだろう。レッスン中の楽師の刺すような視線が頭をよぎり、ケイカは身震いした。ピアノを触りにきたことを少し後悔し始めてきた。

 体調が万全だったら平気よと、自分を鼓舞するが、さっそくあの憎らしいエウカリスの残した言葉が思い出され、ケイカの希望の芽を摘みにかかる。

 ケイカは大人びた見た目や態度を取ってはいるが、まだほんの十三だ。彼女に誰かと心を交わした経験がないことは、本人がよく知っていた。年上の女性への憧れなら今でもある。けれどそれはまだ蕾であって花ではない。人づてや小説から知識を得て恋という言葉を口に含めば、甘いという事はわかるだろう。けれどそれを噛み砕いて、理解して飲み込み、自分のものにできないのなら、意味はない。

 エウカリスが言うまでもなく、今回の課題は特に、自分の解釈を表現していく事が求められている。そうでなくては、ただ曲を演奏して金を投げてもらう大道芸者という評価で終わってしまうに違いない(それでもサンジャオよりかはお金を稼げると、本人は思っていたが)。

「わかってるんだけど……私にはどうしようもないよね」

 ケイカは友人の前では出さなかった弱音を初めて吐いた。本当はエウカリスの前で言い返したかった。でも駄目だった。不機嫌のせいにして黙ったり、怒りに任せてキレてみたけれど、あとから押し寄せたのは途方もない後悔と虚しさと……。

 ピアノの前を離れ、窓の鍵を外して、部屋に空気を少しだけ入れた。まだ若干雨の匂いのする風を吸い込む。二度目の息を全部吐き出して、押しつぶされそうな気分が少しだけ、ましになった気がした。

 ケイカはふたたび自分の楽器の前に戻り、腰掛けた。

 まだ課題の事を考えていたのだけれど、つい鍵盤の上を撫でた指が形を作り、ケイカは曲を奏でていた。それは指鳴らしの為の練習曲を連ねた小曲で、幼少の頃から欠かさず行っている、日課のひとつだった。

 細い指がしなやかに黒と白の上をうねっては戻る。何も意識しなくても指が動くので、弾いていることにすら気づかない時が良くあった。

 そして今もそうだった。ケイカはいつしか体の痛みを忘れていた。深い思考に意識が沈むほどに、少女の指の速さが増していく。もしケイカの意識がここにあったら、ピアノから霧のように湧き出てくる色の移ろいが見えただろう。

「たくさんある中でも、やはり紫色だね」

 突然、聞き慣れない音程の声が耳に飛び込んで来て、ケイカの集中を破った。

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