第19話 歌い手1(6)

文字数 1,637文字



 園長が発表したのは、昔から愛されてきた童謡だった。演奏するケイカの年齢も考慮して、誰もが知っている曲を選んでくれたのだろう。

 ケイカは早速、弾き始めた。演奏は彼女が指鳴らしに練習するよりも容易なものだった。けれど引き受けた以上ケイカは手を抜くことはせず、最後まで美しくその調べを弾き終えた。

 最後の和音が響き終わると、ケイカは習慣で聴衆の方を向いて軽くお辞儀をした。

 園長がステージに戻ってきて、皆に先立ってケイカに礼の言葉を述べた。

 後に老人たちの拍手が続く。みずぼらしく、ぱらぱらという程度のまばらな拍手でしかなかった。

 ケイカは何だか腑に落ちなかった。もちろん期待なんてしていなかったが、そこまで反応が無いなんて。驚いたことに年長者たちの顔には、失望の色さえあった。リクエストされて弾いたのにこの評価ということは、奏者の腕前が疑われている以外の何物でもない。ケイカは再び、この観衆たちが発する違和感に戸惑った。

 少女は焦って答えを探すように会場を見回した。園長やスタッフたちからは、何もヒントは得られなかった。そうしているうちに、左横から感じるものがあった。あの男の子が顔をあげ、ケイカと視線を合わせようとしていた。

 ケイカに気づかれて、若者は駄目だという事を示すように首を横に振った。何故だろう? ケイカはその答えをもらうまで、その子から目を離せなかった。彼の口が動いて言葉を形作った。その唇の形をケイカはさっき見たばかりだった。「言っただろう。いつものように弾けばいいって」

 ケイカは心の中で必死に意味を考えた。言葉がチャペルの鐘のように繰り返し響く。いつものよう……いつものよう……。

「すみません! もういちど弾かせて頂けますか!」ケイカはマイクで喋る園長よりも、大きな声を上げた。

 園長は不思議そうに眉をあげたが、最後は納得したようだ。言葉で許可を告げるかわりにステージを降りていった。

 ケイカは小さい声で、無茶な頼みへの礼を述べた。この機会を無駄にしてはいけない。気持ちを演奏会前の本気に切り替え、深呼吸をして指を大きく広げてから、もう一度その童謡を弾き始めた。

 演奏の時間は、人によって反応がさまざまだった。

 園長は一度聞いたという感情を出さないよう、つとめて自然な表情を浮かべていた。スタッフたちも頑張ってそれに(なら)っていた。何かが変わるのかと懸命に耳を傾けた者がいても、大きな違いは聞き取れなかった。

 けれど老人たちが違った。

 旅番組を見ていた時の退屈そうな表情は消え、目に力が溢れていた。煎餅を食べていた者はその手を止め、お茶は冷めるがままにされた。中には流れた涙をハンカチで拭う者さえいた。

 演奏を続けている間、高齢者たちの反応の違いを肌で感じとっていたケイカは、心の中で自分の判断に間違いが無かった事を確信していた。

 ケイカは曲を終えたあと、今度はじっと動かずに反応を待った。

 今度は食堂全体が、たくさんの拍手と歓喜のオレンジ色に包まれた。ケイカは心からほっとした表情で息を吐くと、白鍵から指を下ろし、お礼の笑顔を老人たちに返した。

 ケイカはそこに一人だけ、笑顔の無い人影がある事に気づいた。老婆だった。背が低い上に腰が極端に曲がっているせいで、車椅子に収まる姿がボールのように見えた。ここにいるどの高齢者よりも年老いているようだ。彼女だけが周りの反応に釣られることもなく、むすっとして、への字口の表情を保っている。

 観衆に答えることを忘れ、なぜかケイカはその姿から目が離せないでいた。

「すごいや。聞いていたとおりだ」ケイカの意識を、手を叩きながら近づいてきた若者が引き戻した。「あまり感動はないみたいだけれど、この人たちの拍手をもらう栄誉は、なかなか受けられるものじゃないんだよ」

 ケイカの注意はふたたび老人たちに移った。「あの、じゃあやっぱりこの人たちは……」

「そうさ。この老人たちは全員が共感覚の持ち主。そして昔はバリバリの色楽だったのさ」

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