第57話 発表会(4)

文字数 1,648文字



「合格です」静寂を破り、楽師が静かに告げた。

 これまで静かだった会場が、一気にどよめいた。驚きと賞賛の声だった。会場の前の審査席では、副楽師長が上司に「今年の学年課題は非常にレベルが高いですね」と耳打ちしていた。

 サンジャオとケイカの関係を知っている会場の生徒たちはみな、うつ向いているケイカに視線を注いだ。同じ学年の最も若い子が、先に合格を言い渡されたのだ。会場の反応も加わって、この後に演奏をするケイカのプレッシャーは相当なものに違いない。まだ試験が残っていて、他人の心配をする余裕がない生徒たちもいたが、そんな想像をしてしまい、ケイカに同情していた。

 ケイカは黙ったままだった。離れて見れば、演奏の前に静かに集中しているように見えたかもしれない。けれど隣の子であれば、腿や首筋の細かい振戦(しんせん)に気づいたはずだ。

 エウカリス――誇るだけあって、完璧な評価をもって課題をやり遂げた。サンジャオは殻を破ったと言っていい。これまでにない完璧な音と色だった。

 そしてケイカはと言えば、まったく自信を喪失していた。

 生まれてから手足のように弾いてきたピアノ。そしてそこから出る音と色に、ここまで自信がない日は初めてかも知れない。

 それなら止めてしまえばいいと、内なる声が甘く誘う。それで楽になるのなら、そうすればいいと。

 少女は全てにかぶりをふった。それでいいのなら、はるか昔にそうしているわ。

「おじいさん。トウマ。これからする事への勇気を下さい」ケイカは見えないお守りを握りしめ、自らの問いに答えるつもりでつぶやいた。

 そして、震えが止まった。

「――ケイカ」

 周囲の同情のベールを弾き飛ばすような冷たい色。ケイカを呼ぶ老楽師の声の最後の部分が、彼女の耳に届いた。

「はい」

 ケイカは明確に返事をして席を立った。

 舞台へ進むケイカを見ていない者はいなかった。当然エウカリスもそのひとりだ。誰よりもライバルの心情を理解していると内心で誇っていた彼女は、ケイカを見て怪訝な顔をした。確かに緊張して青ざめている。だが芯が折れている雰囲気はない。妙な落ち着きさえ感じられるではないか。エウカリスが予想していたのは、諦めとか絶望の表情だ。なんせあれほど徹底的にやったのだ。これ以上、ケイカに切り札など無いはずだった。エウカリスの意識の外で、指がぴくりと震えるように動いた。「理解できないものには恐怖や不安を覚える」その言葉が突然、エウカリスの脳裏をよぎった。

 同じくケイカを見つめるサンジャオの魂にはまだ、先ほど燃え上がった挑戦への熱い炎がくすぶっていた。自分は最高の演奏をして見せた。合格の判子も押されている。あとは安心してライバルが堕ちていく演奏を聞いていれば良いはずだった。

 自分が演技を始める前、エウカリスから乗り移ったような残虐な心が、サンジャオを支配していた。いままでは色々な感情が自分を抑え込んでいた。けれどもう縛られる必要はない。あの時ケイカに嫌われてもいいと宣言した。どうせ嫌われるなら、こちらから憎んでしまえばなおいい。あの人(・・・)はそう言った。そうすればするほどに、あなたの心は強さを増すでしょうねと。

 だからサンジャオはケイカを見下し、笑い、蔑む事で自分を解き放った。確かに効果はあった。鬱とした気分が壊れ、どんな事にも動じない硬い心を持つ、最高の自分を手に入れたと思っていた。だからこうして血の気のないケイカを見ながら、余裕の笑みを浮かべている事ができる。それなのにサンジャオは、硬く黒い溶岩に冷たい水滴が一滴ずつ落ちてくる度に、どこかで心がひび割れていく気分が拭えなかった。

 サンジャオは苛立って反論した。だからどうしたというのだ? もう二人の関係は、過去の物になってしまったのだ。サンジャオにもケイカにも、互いに出来ることなんて何もない。

 ケイカは歩を進めると、階段を登り、舞台の床を踏んだ。金色の髪を揺らしながら、中央まで歩いていく。

 そうして審査員たちの前に立つと、正面を向き、口を開いた。
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