第8話 老人1(4)

文字数 1,309文字



 先程よりも薄い警戒心で、ケイカは老人のいる壁際まで近づいた。促されるがままに窓から顔を出すと、すぐ下に小さな赤土の花壇があって、そこには白や黄色の可愛らしい花が植えられていた。こんな所に土があったこと自体知らなかった。考えてみれば、いつも厳しい指導についていく事に気を取られ、外を見る余裕はなかった。下手したら花を見ても、認識できなかったかもしれない。

「可愛い」ケイカの柔らかな唇から、素直な感想が漏れた。色もきれいだが、しっとりとした花びらが光に透けた質感が何とも言えず、花全体が輝いて見えた。

「どうだい? 私の自慢の花園だ」老人は軍手を脱ぎ、あごひげを手でしごきながら、嬉しそうに紹介した。

 右側を見ると、教室の壁に沿ってずっと土が盛られていて、そちらにも様々な早春の花が植えられていた。

 そのまま何気なく顔動かさないまま、視線を朗らかに笑う老人に移す。老人は作業用のツナギを着込み首にタオルを巻いていた。その上から学校の職員である証を挟んだ名札をぶら下げているのが見えた。どう見ても用務員のようだ。素性がなんとなくわかり、ますます安心したケイカだったが、少女にはこの老人を見かけた記憶がなかった。

「さてさて、誤解が解けた所で、もういちど意見を聞いていいかな。紫は嫌いかね?」

 ケイカは少し考えてから答えた。「紫は悩みとか困る時の印象を受ける色なんだけれど、この明るい花の色は、嫌いじゃない……です」あれ? わたし結構、真面目に答えてない?

「そうか……そうか……やはりな、それは良かった! では明日もう少し、ここに植えるとしよう」老人はとても満足した様子で、もぐもぐと言った。

 ケイカは陽だまりのなか、ひとりぶつぶつと呟くこの老人を、不思議そうに見つめていた。私の一言で彼がそこまで嬉しそうになる理由がよくわからないのだけれど、それを見ているうちに不思議と、ケイカの体にあった力みが抜けていく。

 そしてケイカは気づいた。自分がすっかり課題やエウカリスの事を忘れていた事に。


 窓の外でふわっと少し強めの風が吹いた。レースのカーテンが舞い上がり、音楽室に少し埃の混じった空気が入ってきた。

「誰かいるのですか?」

 ケイカが入ってきた部屋の扉の方から、誰何する笛のような音が鳴り響いた。消音の壁でも減衰しない、厳しい咎めの言葉。声の主はケイカたちの楽師だった。

 肌に感じていた温度が一気に下がった気がして、ケイカは身をすくめた。

「は、はい、先生。ケイカです」

 ケイカは窓から一瞬で向き直り、すぐに直立不動の体制を取った。指が生地に引っかかり、皺が寄っていたスカートのプリーツまでが、ピンと伸びたような気がした。

「自由練習の時間はもう終わっています」当たり前の事を告げているのに、老楽師の声はなぜか冷徹に聞こえる。

 こちらに歩いてくる教師に睨まれた気がして、ケイカはたまらず視線を下げた。本当のことを言えば、楽師の注意はケイカ自身ではなく、グランドピアノのあたりから、さらに少女を通り越して、窓の方へと向かっていた。カーテンの僅かな揺らぎに気づいて、目をきつく細める。

「まさかあなた(・・・)が練習していたわけでは、無いのですよね」

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