第10話 老人2(1)

文字数 1,281文字



 午後の終業(おわり)を告げるチャイムが、スピーカーから鳴り響いた。

 中等部の学科の授業はこれでおしまいだった。いつもならこの後、高等部の子たちが教室に移動してきて、色楽クラスに特化した授業を行うのだが、ここ数日は違った。

 流石に受験のある先輩たちは、補習があればそちらを優先する。ケイカが教室の同じクラスの子を見渡してみると、ほぼ全員が帰りの支度を始めていた。

 それぞれが自分の家で練習するのだろう。一階の音楽室に足を向ける生徒はおそらく、ケイカぐらいなものだった。

 学年課題が発表された後の人と人の間の空気というのは、こんなにピリピリしているのか。ケイカはここ数日それを肌で感じていた。

 テーマは皆おなじでも、課題は各個人に与えられるものだ。それぞれが異なる器を得意とし、あらわし方は違うものだから、練習はバラバラに行われても不思議ではない。ただ競争という訳でもない。試験を受けた結果、落ちる子は落ちるんだし、誰かが不参加になったからといって、自分が有利になるわけでもない。

 だったら、もうちょっと友人関係を強調して「一緒にやろうよ」とか「私の音と色の調和を見てくれない?」なんて会話があっても良いのではと、ケイカは思う。自分の友達付き合いは下手なくせに、こういう時だけ矛盾を感じてしまうのは、生来の天の邪鬼さが作用しているに違いない。少女はそんな風に考えていた。

 ケイカがもう少し大人だったら気づいたかもしれないのだが、事実はもう少し単純だった。人は大きな不安を前にすると他人にかまう余裕が無くなるのだ。

 ケイカは鞄を開けると、机の上に並べていたテキストを重ねて揃え、中にしまいこんだ。フランネルの裏地のついたスクールコートと赤いマフラーを片手にかかえる。音楽室に向かう前に、サンジャオの席に寄った。少女は直前の授業のノートの数字とテキストを並べて睨めっこし、頭を抱えていた。

「ジャオ、わたし下にいるから」ケイカは友達の机を軽くコンコンして、教室を後にした。

 音楽室はやはり貸し切りだった。

 ケイカは荷物を置くと、ピアノの前を通り過ぎて、先に部屋の窓をわずかに開けた。以前の事があったので、扉の方を警戒するのは忘れなかった。

「晴れてるし、空気の入れ替えぐらい、大丈夫だよね」

 楽器の前で慣らしの曲を一通り回した後、ケイカはちょっとだけ、いつもと異なるフレーズを弾き始めた。

 それは彼女が好きな曲の小節で、いわば流行りのものだった。古典を主とする色楽の練習では絶対に題材にあがらないし、弾かせてもらえない調べだ。

 気晴らしをする時はいつも、ケイカは明るくてノリの良い曲を好んで弾いていた。格式は備わっていても、いつも眠たくなる旋律や技巧的な音符ばかりを追いかけていてはつまらない。こんな気兼ねなく力を抜いて楽しめる音があるのに、楽しまない手はないでしょう?

 天子様だってそう思うに違いない。失礼を承知で言わせて貰えれば、あの方だって、いつも聞いている曲だけじゃあ、欠伸のひとつもしたくなる時がきっとあるはず。根拠は薄いけれど、ケイカには彼女を飽きさせない自信があった。

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