第38話 治癒(1)

文字数 1,097文字



 ウメさんの誕生日まで、ケイカは色譜をもとに「春の唄」を練習した。

 演奏で困った所はひとつもなかった。この曲の作者の意図なのか、あえて簡単な音を選んで置いているような印象すらあった。

 色も古い表現だったが、基本に忠実に演奏すれば綺麗な色が浮かんできた。

 歌詞は昔の言葉が並んでいる為、読みづらく漢字の発音に不明な点がままあった。学校の図書室に張り付いて、フリガナやアクセントを適当にふって何とか乗り切った。

 だが問題は歌だった。

 ケイカは素晴らしい演者だが、歌い方をまともに練習したことがない。鼻歌は歌えても、それはメロディを声でなぞっているだけに過ぎなかった。

 遥か昔、実際の演奏ではどんな人が歌を務めたのだろうか。そんな資料のありかはケイカには想像できなかったが、専門の歌い手(歌手というのだろうか)がいた事は簡単に想像できた。

 ホームの老人たちに歌い手の孫でもいればいいのにと嘆いてみたが、そんなうまい話はなかった。

 音楽は再現芸術というが、紙に書いてある文字や記号だけで、本来の音をこの世に復活させる事は難しい。結局、演者側の解釈がいかに優れているかで、演奏会の評価は決まる。

 今回その演者はケイカしかいなかった。ケイカはウメさん以外の老人たちに話を聞いたり、小節を歌ってみせたりして、感想を得た。それだけの材料で何とかするしかなかった。


 最近ケイカは課題という二文字すら忘れかけていた。ぼんやりとした遠くの山よりも、近くの目的地に気を取られていたからだ。

 そしてその目的地にはひとりで歩いている。本当は二人で行くはずだった。

 トウマ。

 ケイカは彼――いや彼女と一緒に、その場所へ行きたかった。あんな短い間だったけれど、トウマと一緒に()った外でのお遊び。環境なんて最悪だった。雑音だらけで、暗くて、うるさくて、何もかもが不安定。それなのにあの時間は、ケイカがどんな立派な会場で演奏した経験よりも、彼女の心に焼き付いていた。

 変な気持ちだった。嫌かどうかも分からない。ただもやもやして気持ちが晴れない。

 ピアノの鍵盤に触れながら、ケイカは物思いに沈んだ。うるさいし、回りくどいし、人を苛立たせる天才。そして美しい歌声の持ち主。いままであんな子はケイカの周りにいなかった。あの密着した時の体温が、まだケイカの記憶にこびりついていた。ケイカと同じ女の子と知ったはずなのに、不思議と違和感がなかった。

 病院の出来事から数日経つが、変わらずホームにトウマの姿はない。

 ケイカは頬を掌で軽く叩いた。おばあちゃんの誕生日まで。もうすぐだ。最後までひとりでやり抜くしかないのだと、彼女は決意を固くした。

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