第15話 歌い手1(2)

文字数 1,185文字


 こんなにも毎日、音楽室を独り占めできるとは思っていなかった。ケイカは今日もその場所を訪れた、最初のひとりになった。

 誰かが先に部屋にいるかもしれない。そんな予感で扉を開けたケイカだった。けれどすぐに、高まった気持ちの分だけ損したのだと気づいた。

 とりあえず心配事を先延ばしにされてしまい、ケイカは気が抜けてしまった。

 そんな事情も知らず、あいかわらず音楽室は静かだった。

 授業が終わって足早にここに来てしまった。外を見てもあの老人はまだいなかった。

 思えばここ数日、心がざわつくことが多すぎて、ケイカはろくに練習ができていなかった。

 せっかく女性特有の体の症状も治まってきたのだから、ここらで本気を出し、調子を戻さねばならない。曲を選ぶ事も重要だが、ケイカのベースラインが上がってきてからでもいいと思った。

 ケイカは共用の楽譜棚を開き、先週まで練習していた楽譜の中から、難しめな曲を選び取っていった。その最初の曲を譜面台の上に置き、おもむろに弾き始めた。

 一曲、また一曲と、進むうちに調子があがってくる。ペダルの踏み変えも問題ない。大体、練習を初めてからこのぐらいの時間が経つと、自分の色が明確に見えるようになってくる。今までは、ただ鳴らした音に対応する色が浮き上がってくるだけなのだが、集中力が増すとその先の世界を表現できるようになる。色と色の繋ぎ具合、普段より見せる色の範囲を広げたり、わざと早めに色同士を混ぜて、盛り上がる場所で最も美しい色が見えるよう調整したりと、それこそ細かいテクニックは山とあった。

 この独特の表現を通常の譜面に残す事は非常に難しい。そこで色楽では、専用の色譜(しきふ)という紙が別に一枚、使われるようになった。これは楽譜にセットする透明なシートで、そこに独特の記号や色を書き込んでいくという使い方がされていた。またこの不思議な記号は、あくまでケイカが見ている色の再現である。他の奏者がこの色譜を見たとしても、ケイカもイメージする色を、完全に再現することは難しかった。

 ひととおり弾き終わった後で、彼女は自分の色譜に、細かい指示と修正を入れていった。これは使えるとか挑戦(チャレンジング)だとか――小説家が作品を推敲していくように、ケイカの判断によってその譜面の完成度は、徐々に高まっていった。

 二曲分すすんだ所で、ケイカは肩と指の力を抜いた。少し練習していないだけだったが、疲れると指の開きが安定しないのがわかってきた。

 再び調子を取り戻すために、アルペジオとトレモロを組み合わせた、指の調子を整える小節の組み合わせを弾き始める。これは母から教わったものを自分でアレンジした曲だった。何度か繰り返しているうちに今の調子が判ったり、基本の動作を取り戻すことができる大事な診断ツールだった。

 ケイカはいつのまにか目を閉じて、その曲に合わせて同じメロディを口ずさんでいた。
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