第36話 理由(6)

文字数 1,238文字



 その申し出は愉快な程、トウマの意表をついた。

「はは! 面白いね!」トウマがばっとベッドから降りた。毛布はまだ頭についてきて、砂漠の国の民族衣装のように、髪と顔の半分を隠したままだった。その布の下でトウマの目がぎらっと光った。

「君はなんてお人好しなんだ! いつか身を滅ぼすに違いない。言っただろう、僕は頭がおかしい異常者なんだよ? ここに閉じ込められている理由がわかっていないみたいだね」

 トウマがケイカに向かって一気に歩を詰めてきた。一瞬にしてケイカは壁際に追い詰められた。

 ケイカは慌てて両手を、トウマと自分の体の間に差し入れようとしたが、間に合わなかった。

 トウマは全身を使ってケイカの体を壁に押し付け、動けなくした。トウマの右足がケイカの両腿の間に入り込み、スカートの生地を押し上げた。

 あり得ないぐらいそばに、トウマの目が、鼻が、唇が近づいていた。相手の体温が薄い布を伝って直接、ケイカの体を温めてくる。人生の中でも最高潮にケイカの心臓が高鳴った。

「や、やめて……お願い……」体が震えてきちんとした声がでない。ケイカは顔が火照るのを隠せなかった。

「君の『なんでも』に、これは入っていないのかい?」トウマはわざとケイカのピンクの頬に、自分の鼻先を擦らせた。ケイカの嫌がる反応を楽しんでから、さらに言い添える。「ここで叫んでも、音は外に漏れないよ」

 ケイカは必死に目を閉じ、震え、耐えていた。そんな少女を残酷な表情で見つめていたトウマだったが、一気に熱が冷めたように真顔になった。トウマはすっと体を引いた。

 足に力が入らず、ケイカは壁に体を預けながら、ずるずるとその場にへたり込んだ。

「出来ない約束を言わないほうがいい。自分の為だ」トウマは言い捨てて、再び自分のベッドに戻って座り込んだ。

 ケイカの心臓の鼓動はまだ収まらなかった。荒い息をついて、ゴクリと唾を飲む。感情がめちゃくちゃで、視界がパニックを示す激しい赤色に覆われていた。瞼をぎゅっと閉じると、ケイカの瞳から涙が流れた。それは恐怖や悲しみではなく、悔しさが生み出した憤りの涙だった。

「歌いたくないなら、最初から歌わなきゃいいじゃない!」ケイカの中で、何かが切れる音がした。「それなのに、もったいぶった言い方して……そんなにあなたの歌に価値があるのなら、録音でもして、ひとりで聞いていればいいんだわ!」

「僕は然るべき所で歌いたいだけさ……」

「そんな所がどこにあるの? 自分の価値を認めて欲しいくせに、求められると逃げて閉じこもってしまうのね」

「そんなことはない!」トウマが荒々しく反論した。「僕には歌う理由がある。君にはわからないだろうけれど」

「わからないよ! 聞かせて! 説明して納得させてよ!」

「じゃあ教えてやるさ!」

 トウマが立ち上がった。

 頭を覆っていた毛布が、トウマの胸のあたりまで落ちた。さっと黒いものが広がった。

「え……」ケイカは息を飲んだ。そこに立っている人物は、ケイカの知るトウマではなかった。

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