第58話 発表会(5)
文字数 1,971文字
「石野 桂花。器はピアノです」
楽師は舞台袖から上がって中央で止まるまで、ケイカを鋭い疑念の目付きで見つめていた。彼女が特に気になったのは、ケイカがその手に何も持っていない事よりも、奇妙に落ち着いた表情、特に視線だった。
ケイカは観客席の近くから遠くまで、全てを見ていた。天井、壁、照明、そして誰も座っていない椅子。審査員たち、老楽師、仲間、ライバル。ここで見た全員の顔を忘れまいと、しっかりとその目に焼き付けた。
「私は曲を……曲名をお伝えしようとしたのですが、色譜を無くしてしまって、この手には何もありません。よくわからないんです。今日来てみたらこんな状況でした。それで私は友人の――」
「ケイカさん!」老楽師が突然、教え子の言葉を遮った。声がケイカを厳しく問い詰める。「もし、あなたが何か『違うこと』を言おうとしているのなら、それは決して審査を良い方向に進める助けにはなりませんよ。むしろ不利になる可能性しかありません。いいですか、一時の感情で犯人を――」
「いいんです、
「お気遣いありがとうございます。私は……私の発言は何もありません。ただ曲を弾いて、そして帰るだけです」ケイカの表情は柔和で、緊張はなくなり、心から楽しそうに微笑んでいた。「私の曲の名前は……わかりません。古くて読めなかったんです。けれど私の友人がくれた昔の曲です。弾く人も聞く人も、そして見る人も……色楽とか関係なく、全員が楽しめていた時代の曲なんです。それが今、私がお聞かせできる物の全てです」
ケイカは言葉を失う観衆を背に、自らの器であるピアノの前に進んだ。前の者が座った椅子の位置を調節して腰を落とす。胸元から古びて折りたたまれた楽譜を取り出した。手で広げる時に感じるかさかさの紙の感触が、ケイカには愛おしく感じる。いま少女の心には、それだけの余裕が生まれていた。
そしてケイカは曲を弾き始めた。
単純で複雑な技巧も何もない。ただ穏やかで優しい曲だった。曲調は単純でテンポも緩く、ただ素直な曲だった。会場の色楽たちに映る色彩には、華美なものも過激なものも一切なかった。
誰もが困惑して顔を見合わせる中、ケイカが息を大きく吸い込んだ。
次の瞬間、ケイカは口を開いて歌い始めた。美しい調べが音に乗って会場中に響いた。
歌は、女性の愛おしい想いをやさしく歌い上げたもので、それ以上でもそれ以下でもない。
ただしその歌がピアノの旋律と絡まった時、誰もが予想しない物が浮かび上がった。
それはまるで絵画だった。
楽器が出す音と人の発する声、どちらも同じ音の波であるはずなのに、その二つが絡まることで、色が生き物のように舞い、空に美しい絵が紡がれていた。
その姿はどこか抽象的で、描かれた内容を形容することは難しかった。もしかして、単にケイカの歌が未熟で、本来の完成された姿ではないのかもしれない。
けれどその美しさは、色楽が最高の美とする『色』を超えたものであり、そこには今の色楽者が達していない領域への可能性が描かれているように見えた。
楽師長たち、そして生徒たちが圧倒される中で、ただひとり色楽の力を持たずに発表会に望んだ理事長だけが、周りの反応をみて何事かと困惑していた。
「が、楽師殿……これは?」
そう訊ねられても、老楽師は返事を戻すことも、理事長を見ることもしなかった。ただいつも冷静な彼女の顔に、何かを悔やむような表情が張り付いていた。異様なまでに強く握られた彼女の指が、真っ白になっていた。
生徒たちの中には、その光景に涙する者もいた。ある少女がハンカチを取り出そうとした時、硬いものがギリギリと擦り合わされる妙な音に気づいた。
驚いて音のする方を振り向くと、そこにはエウカリスが立っていた。直立して、怒りの表情が顕になっているように見えた。
だが先輩はすぐに会場の出口へと歩いて行った。後になってエウカリスが去った理由を誰かに聞かれても、その少女は答えられなかった。
空白となったエウカリスの席の近くで、サンジャオが膝の上で拳を握り、演奏が終わるまでずっとすすり泣いていたが、茶髪の少女の悲しみの声とその姿は、会場の音と色に圧倒されて誰の記憶にも残らなかった。
演奏が終わった。
ケイカは胸元に楽譜をしまい、席を立つと再び老楽師の前に進み出た。少女の体からは、曲を弾ききったという達成感が漂っていた。
その頃には老楽師はもう、いつもの無愛想で不遜な態度を取り戻していた。彼女はゆっくりと口を開いた。
「どんな意図があったのかは知りません。けれど私には今の曲から、あなたの『色』は見えませんでした」
老楽師はケイカをしっかりと見つめると、最後に結果を告げた。
「ケイカさん、あなたは不合格です」