第63話 結び~老楽師の回顧録(1)

文字数 982文字



「君の言う事は正論だよ、アイルロース。けれどそれが正解だろうか? 私には、そうは思えないのだけれど」


 老楽師は暗がりのなか、ひとり廊下を目的の部屋に向かって歩いていた。

 今日の午後の授業はもう無いし、学年課題の発表会はとうに終わっていたので、彼女が次々と通り過ぎる部屋には、職員も含めて誰もいなかった。

 廊下を突きあたると、楽師は重い扉に手を触れ、押した。

 扉が開き、またバタンと閉じる音がした。

 部屋の中は窓から月明かりが差し込んでいたので、わずかに明るかった。

 目的があるかのように迷いなく部屋の中央(なか)まで進む。右・左と首を振ってまもなく、彼女のするどい目がすぐに、この部屋の異変を探し当てた。

 部屋の消音壁の近くまで歩いて、斜めに視線を上げる。

 老楽師の目が細められた。そこにかかっている偉大な先人たちの肖像画の列を目で追っていくと、その最後にひとつ欠けている空間を発見した。

 そのまま壁伝いに歩いていくと、楽師の靴が何かを踏みつけて、硬いカチンという音が鳴った。

 かがみ込んで一瞬、暗闇に溶け込んだと思うと、再び姿をあらわした彼女の掌には、鋭く尖ったガラスの欠片が載せられていた。

 何の前触れもなしに、楽師の視線は大型の楽器のひとつに集中した。打楽器のひとつ、マリンバだった。本来はマレットで叩くべきローズウッドの音盤の上に、一枚の額縁が無造作に斜めに置かれていた。

 その一致しない組み合わせが老婆の注意を引いたのか、彼女はその楽器の前まで音もなく進んだ。額縁を手に取り、壁の暗がりから窓の近くへと移動した。月明かりを反射している黒いピアノの上蓋が適当だったのだろう。その額をその上に置いた。

 銀色の光に照らされてあらわになったのは、壮年のある楽師の姿を描いた肖像だった。

 絵の人物は肩から上だけしか見えないが、がっしりとした体格をしていた。少し白いものが混じり始めた髪と、立派な口ひげを蓄えていた。顔の輪郭は岩のように形作られ、意志の強い性格を連想させる。けれど対照的に、丸い眼鏡の下の瞳はとても人懐っこくて、優しさといたずら心のある少年のようだ。わずかに微笑んでいる口元が、いまにも喋りだしそうだった。

 右頬に特徴的な大きめのホクロがあって、それが一層この人物を温和に見せていた。

 老楽師はじっとその絵を見つめ、考えていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
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