第13話 老人2(4)
文字数 1,670文字
誰もいなくなった校庭を見ていても仕方がない。ケイカは窓を閉めた。そこで一気に疲れがやってきた気がして、ケイカは大きく息を吐き出した。
ただの他愛もないお喋りが発展して、とんでもない事を約束してしまった。想像力のないケイカには、歌い手のイメージが湧かなかった。外国の人に合うようなものだろうか? ルールからしたら駄目なのだろうけれど、いまいちケイカには悪いことをしたという実感が無かった。
「ケーカ?」
背後で物音がして、静かになった音楽室に誰かが入ってきた。どこか探るような声を出してきたのは、サンジャオだった。
「誰かいたの?」小さな顔で部屋を隅まで見渡すが、誰もいない。サンジャオは不審そうに聞いた。「何かずっと喋ってたみたいで、大きな声もして……」
「ああ、別に大丈夫。ちょっと変な気分だったから、独り言」そういえば、サンジャオに老人のことは教えていなかった。
「何かあるんなら、私に言ってよね。悩んでるとか、何でも。だ、だって私たち友達でしょ?」
「うん……」ケイカはサンジャオの声の調子に、何か違和感を覚えた。「ジャオ?」
ケイカに問われても、サンジャオは答えなかった。その場に立って、目を合わせずにうつむいている。
ケイカは前に進み出て腰を落とし、意地を張る子供のように黙っている少女の顔を見つめた。
年がひとつ上のケイカに見つめられ、サンジャオは小刻みに震えだした。ギリギリでまだ泣いていないけれど、顔に悲しみの形が溢れ出ていた。
「さっき……教室で言われたの。ケイカと仲良くするなって……あの……あいつは変だからって」
「誰! エウカリス?」
サンジャオは黙ったまま、コクリと首を縦に振った。
「あいつ!」ケイカはカッとなった。いきり立って、サンジャオの横を通り抜けようとした所で腕をつかまれた。
「待って! エウカリスもう、帰ったから!」
サンジャオが懇願して止めたので、ケイカは踏み出した右足を引っ込めた。サンジャオの手を優しくだが振り払う。
「私はエウカリスに何も言ってないからね! こ、怖かったけれど、無視して逃げてきただけだから!」
「わかってるって。それに私、ジャオに怒ってるわけじゃないし」ケイカは不安そうに見上げてくる、背の小さなサンジャオの頭を撫でてやった。
抱えていた心配事を吐き出し、楽になったのだろう。サンジャオはケイカの掌の暖かさを感じて、子猫のように安らかな顔になった。「怒るのは分かるけれど、お願いだからエウカリスと喧嘩しないで。これからもだよ、お願い」
「……わかってるけどさ。挑発してくるのはあいつなんだぞ?」
「ケーカが怪我でもしたら私……」サンジャオは潤んだ目のまま、何かを言いたそうにケイカを見つめた。頭の上にあったケイカの右手を両手で包み込み、胸元に下ろした。それを自分の小さな胸に押し付ける。
「ジャオ?」
感情が高まったサンジャオが、いきなりケイカに抱きついてきた。不意をつかれたケイカは振り払う訳にもいかず、一旦はされるがままになった。
「なあ、ジャオ、そろそろ……」
サンジャオは目を閉じたまま、自分より背の大きなケイカの腕の中でじっと動かなかった。やがて小さく首を縦に振る。「……うん」
「ここで、練習するつもり?」
「ううん、弓を……家のと交換したくて来ただけ」
さっとケイカから離れたサンジャオは、自分の楽器の置いてある方に走っていった。すぐにお目当てのチェロの弓ケースを探しあてた。
ケイカは自由になった腕を伸ばしながら、その様子を見ていた。腕と胸の辺りにサンジャオの体温が残っていて、まだ暖かい。
「ケーカはまだ練習していくの?」サンジャオが聞いた。
「あと、少しだけ」本当は全然、練習できていなかったのだが。
「わかった、じゃあね」
床に放ってあった自分の鞄を持つと、サンジャオは部屋から出ようとする。扉の前で立ち止まり、くるりと振り返ってケイカに微笑んだ。「ケイカ。今回の学年課題だけどね、私、上手くできそうな気がしてきたんだ」
サンジャオはそれだけを告げ、音楽室の扉を閉めた。
(老人2 おわり)