第35話 理由(5)
文字数 1,499文字
ケイカは肩にかけていたケースから楽譜を取り出し、ベッドの上のトウマに見えるように広げてみせた。
滅多に見ることのない、大昔の譜面。それはトウマにとっても予想外のものだったに違いない。眼の前に置かれた一束の紙が、彼のへらず口をピタリと止めてしまった。
いつも飄々としたトウマが、私の持ってきた物に、興味を惹かれている――ケイカはなぜか、それが無性に嬉しかった。
毛布の下の頭が小刻みに動いている。想像するにトウマの目が譜の流れを追っているのだろう。
ひと通り見終えたのか、トウマの動きがピタリと止まった。彼は再びぐっと、深く毛布を体に巻き付けた。
「それで、これが何だっていうんだい」
「それ、ウメさんが色楽だった頃、天子様に聞かせていた曲なの。私が見つけたのよ!」ケイカは誇らしげだ。「園ではいつも笑ってもらえないけど、彼女きっと私の曲もあなたの歌も、聞いてくれてると思うんだ。ただ本当に望んでるのは、あの人がいちばん素敵だった頃に、弾いていた曲なんじゃないかなって、そう思いついたの。まあ、私のあてずっぽうなんだけれどね……でも絶対気に入ってくれると思うんだ!」
トウマは黙っていた。ケイカはそれを納得してくれているものだと受け取って、言葉を続けた。
「私、それを見つけてね、びっくりしちゃった! だって曲の中に歌詞だよ? それも献上曲にこんな素敵な言葉が添えられてるなんて、今じゃ考えられないよね」ケイカはその歌が贈られている場面を想像して、うっとりとした心地になった。
「曲を見つけたことも言いたかったんだけど、トウマに伝えたかったのは、その事なんだ。天子様も歌を聞いていた時代があった訳でしょう? だからトウマが皆に聞かせている歌、ぜんぜん余分だなんて思うことはないよって」
喋りすぎたかなと思い、ケイカはいちど言葉を止めた。
「なんかうるさく聞こえたらごめんね。でも元気を出して欲しいから。それでもし気持ちが落ちついたら、この曲を歌って欲しいの。ウメさんの誕生会の時に、私の演奏で……」
「……いつまで喋っているつもりなんだい?」
「え?」その声の冷たさに驚いて、ケイカは身を固くした。
「うるさいって、言ったつもりなんだけど、伝わらないみたいだから教えてあげる。ケイカはどういう理屈で、僕がその婆さんの為に歌うと思ったんだい?」
「だ、だってトウマはいつも、おばあさんたちにそうしてあげてるから……」
「言っただろう。あのホームに行くのはメリットがあるからだって。婆さんたちからアドバイスをもらえなきゃ、あんな所に行く必要はないのさ。特にウメさんなんて目もロクに見えない婆さまの前にはね」
「ひどい……そんな言い方って」トウマの言葉に潜む、いつも以上の棘の鋭さに、ケイカはたじろいだ。
「この声は僕の為にあるんだ。僕は歌いたい時に歌う。誕生会の時なんかじゃなしにね。お願いされたって、安売りする気はないね」
今までも機嫌が悪いことはあったが、今日のトウマはそれが特にひどい気がした。「その……捕まった事を気にしているの? 殴られたから?」ケイカはどの言葉が気に障るか分からず、おずおずと訊ねた。
トウマから答えはなかった。
ケイカはなんとかしてトウマを説得したかった。一番はおばあさんの為だったが、心の中では今は失われてしまったこの曲を、世に再現してみたい気持ちが占める割合が大きくなっていた。その為には彼の声がどうしても必要だった。
「わかったわ。