第24話 歌い手2(3)

文字数 1,734文字



 そしてケイカはいま、夕方の喧騒の中、駅前の商店街をひとつ曲がった細い路地に立っていた。

「ちょっと……まだ準備できない?」

 ケイカは怪しい色の壁際の看板の裏に目立たないように潜んで、いらいらしながら遅い出番を待っていた。

 文句はトウマにぶつけていた。彼の顔は深く被ったパーカー帽の隙間からしか見えない。細い路地の入り口から大通りへと頭を出し、キョロキョロと人の流れを探っていた。

「待って、もうすぐ。まだあそこに警官がいる」

「警官って!」ケイカはすくみあがった。「まるで犯罪じゃない! どうしてこんな事をしなきゃならないの?」

「これが楽しいんじゃないか」トウマの返事はうわの空だった。「おっと、こっちを見た」

 トウマが顔を引っ込め、側道の壁にぴったりと頭と背中をつけた。ケイカも慌ててそれに習う。

 ケイカの足が何か黒くて汚いものを踏みつけてしまい、少女はその感触に顔をしかめた。学校の靴じゃなくて良かったと心から思う。変な匂いまで感じた気がして、ケイカは付けていたマスクを引っ張り上げ、位置を直した。

「あいつらが通り過ぎたらすぐ始めよう。楽器を準備してくれるかい」

 やっぱり質問の答えは得られなかった。ケイカはため息をついて、近くのダンボール箱に積んでおいたケースのジッパーを開いた。中からポータブルのキーボードを取り出す。

「楽譜は?」振り向いたトウマが確認する。

「いらないわ、覚えたから」

「もう? さっすが」トウマは機嫌よく、口笛を鳴らした。

 ケイカは恨めしそうに相棒を見返した。この時点では彼のようにまだ気分がのってこなかった。それにしても、こんな事をさせられてからもう何回目だろうか。ケイカはキーボードの電源を入れながら思った。

 あの変な約束を交わしてからというもの、トウマはケイカを何度もこの衝動的な行為に誘い出していた。

 最初から、ものすごく嫌だった。やらないとはっきり断ったつもりなのに、トウマの強引な口調と理論――これが仕事(ビジネス)なら契約不履行だよ、とかなんとか――にケイカは負けてしまった。

 初回の演奏は公園のベンチでの前で行われた。

 観客はたまたま近くにいた主婦と、昼間からカップ酒を片手に飲んでいたおじさんだけだった。トウマが歌いだした途端、主婦の目の色が変わった。彼女は子供を連れて早々に退散していった。浮浪者は子守唄代わりに一曲目の途中まで付き合ってくれたが、すぐに船を漕いで夢の住人となった。

 歌い終わるぐらいで、遠くから制服を着た警官らしき大人がやってくるのが見えたので、二人は慌てて公園の外に退散した。とにかく最悪な始まりだったけど、トウマは「最高!」と言って笑っていた。

 その後も今日に至るまで、トウマが指定する時間に様々な場所で演奏を試みたが、歌は二曲目まで続いたことはなかった。拍手なんてもってのほかで、退場はいつも駆け足だった。

 これがトウマのしたい事なのだろうか。契約という名の約束のもと、ただ強引に付き合わされているだけのケイカには、このライブの意味はよく分からなかった。

 ただ変に場数だけを踏んだせいか、出待ちをする間に雑談をする余裕だけは生まれてきていた。

「ねえ、トウマ」ケイカは聞いた。「ウメさんって、音が聞こえるだけで、見えないんだよね?」

「なんだい、こんな時に。そうだって聞いてるけど」

「やっぱり色も見えないのかな」

「言ってる意味がわからない。当然だろ」

「あのね、私なんかは曲を弾く時に、音はあたり前のようにあって、色も見えるわけじゃない? 色のない世界ってどうなんだろうね……」

「わからない。まあ、別にどうってことないだろう? 耳が遠くても音は聞こえるんだから」

「そうかな……ウメさんはもともと色楽なんだよ? ずっと見えていた景色が見えなくなるのって、怖くない?」

「……色楽でもない僕に聞いてどうするのさ」

「本当は寂しいんじゃないかって、わたし思っているんだ。だからどうしてもウメさんに笑顔になってもらいたくって」

「ふうん」トウマは心底、興味無さそうに返事をした。

「ウメさんって何歳かな。あの人の生まれた頃って確か……」

「つまらないお喋りはそこまでだ」トウマが横柄に遮った。「やっかいなヤツラがいなくなった。さあ、出るよ」
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