第27話 ほころび(1)
文字数 1,187文字
「ウメさん、少し具合が悪いみたいで、自分の部屋でお休みされているわ」
老人ホームのケアセンターの執務室にいる園長が、ケイカにそう答えた。今日ダイニングルームで演奏をした時、ウメさんの姿を見かけなかったので、心配になったケイカが聞きにきていた。
「心配よねえ。来週、お誕生日会があるんだけれど、それまでには良くなって欲しいわ」
「ウメさんって、おいくつなんですか?」
「今年で八十五よ。彼女がこのホームでは最年長ね」そう言って園長はお茶すすった。
「ケイカさんに演奏してもらうようになってから、ホームの皆さんが明るくなった気がするわ。体調を崩す方も少なくなった気がするの。本当よ」最後の言葉は、照れるケイカをみて付け加えた。「ただウメさんはおひとりだけ、認知のこともあって音楽を聞かせても、おわかりにならないみたいだから……他に元気をあげる方法があればと思うんだけれど」
「ウメさんは、ボケちゃいねえよ!」センターの受付窓口の方から、威勢のいい声がした。最初、園長とケイカには声だけで姿が見えなかった。歩いていって窓口から下を覗いてみると、車椅子に乗った紫の髪のおばあさんを発見した。
「あたしゃーね、ウメさんの事をずぅーっと見てきたからわかる。あの人はねぇ、絶対ボケちゃいねえ。ただただ、寂しいだけなんだよ」
「寂しい?」ケイカはおばあさんの視線と水平になるまで腰を落とし、聞き直した。
「あの人が聞いてた曲っつーのはね、今のとはだーいぶ違ってたのさ。だから新しいのをいくら聞いたって、ウメさんの心は踊んねぇのさ。いくらあんたがどれだけ上手に弾いたって、そりゃ無理ってもんさ」
「聞いていた曲……って、ウメさんの時代の、古い曲ってこと?」ケイカは考えた。そして不意にひらめいた。「あ……おばあちゃん! それってもしかして、ウメさんが現役の頃、天子様に聞かせていた頃の曲ですか?」
「んーそうさ。ウメさんはその頃から何でも一番上手で、皆の憧れだったのさ!」
「園長さん! それだったら学校の地下の倉庫に、楽譜があるかもしれない! 天子様にお聞かせした曲、代々のもの全部、写しが保管してあるって聞いたことがあるの!」
「あら、本当?」
「はい! ねぇ、おばあさん。ウメさんの好きだった曲の名前、何か覚えていますか?」
「はぁーあたしも忘れっぽくってねぇ、あんまり覚えてねえけどなぁ……」老婆は長い間首を傾げていたが、ついに思い出したようだ。「そうそう。『春』ってのが曲名に入ってたような気がするなぁ」
「わかりました!」ケイカは文字どおり飛び上がって喜んだ。
ずっと気になっていたけれどつかめなかった、雲のような存在の尻尾に指が触れた気がして、ケイカは興奮を抑えられなかった。すぐにでも動きたい衝動を抑えられない。
「ありがとう、おばあちゃん!」ケイカはその言葉を言い終わる前に、学校に向かって走り出していた。