第41話 恋人たち(1)

文字数 1,032文字



 その花園の感触は柔らかくて、暖かかった。

 病院の本棟からストレスケアセンターに向かう敷地内通路の途中に、こんもりと木々の茂る中庭があった。見舞い終えた客がくつろぐ場所というよりは、代わり映えのしない入院生活に心を膿んだ患者たちが、静かに座って心を癒やす為の庭という趣だ。

 院内の他の場所がそうであるように、この庭も最近の世間事情で喫煙ができない規則があてはまる。それもあって、普段から庭を利用する人は少なかった。

 庭を囲むレッドロビンの植栽の壁に隠れるように、ひとつの人影があった。その影は芝生の上に寝転がっていて、まだ少し温かさの残る陽光の下で、体をゆっくりと暖めていた。じっとしていたかと思えば、影はゆっくりと動き上半身だけがふたつに分裂した。ふたつの頭がひとつに寄り添い、しばらくの間止まった。そして小刻みに震えたかと思うと、また二つに別れて、影たちはクスクスという笑い声をたてた。

 道に沿って植えられた花壇には、たくさんの種類の花々が咲いていた。そのうちのひとつ、日々草の小さな紫の花がいま吹いた風で、形そのままに茎から外れ、芝生の上を回転しながら風車のように転がってきた。風の後押しを無くした花弁は、力をなくして人影のすぐ脇で、音もなく止まった。

 影からにゅっと一本の腕が伸びてきた。その先に生えてきた細い人さし指と中指が、花びらの一枚を挟んで持ち上げた。紫の花はそのまま宙を運ばれ、もうひとつの影の頭の上に優しく置かれた。二種類の異なる笑い声がしたあと静かになり、ふたつに分かれていた頭がまた、ひとつにくっついた。

「ん……」頭に花を乗せたケイカが、くぐもった声をあげた。「……少し息をさせて」

 渋々と言った感じで、もうひとつの頭がケイカから離れた。トウマは力の抜けたケイカの上半身を右腕で支えていた。左手はケイカのお腹のスカートの生地の辺りに優しく添えられている。腰から下の部分は二人で足を絡めていたので、分かつのは難しかった。

 トウマは心底安らいでいる表情のケイカの小顔を、優しく見つめていた。支えていた腕を徐々に下ろしていくと、ケイカの体もそれにならって傾いていく。やがて二人は完全に芝生の上に横になった。そのまま、しばらくどちらも口を開かなかった。

「……そろそろ、行かないと」
「もう少し」

「さっきもそれ言ったよ」
「そうだっけ?」

「あまり遅く家に戻ったら、叱られちゃうわ。ここに来れなくなるかも」
「それは嫌だ」

「じゃあ、もう行くよ?」
「もう少し」

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