第37話 理由(7)
文字数 1,722文字
黒、というには薄く灰色がかったまっすぐな頭髪が、肩を超えて鎖骨のあたりまで、垂れ下がっていた。あまり切られていないせいなのか、髪の量はかなり多く、耳は先端だけが見え、残りは隠れていた。
いま目の前でケイカに向いた顔は、血の色がまったく感じられず、蒼白だった。眠りを得られていない目の下に、暗い影がある。口元に殴られたアザの青色が見えた。
「本当に、トウマなの?」ケイカは必死になって相手の顔を見つめた。倦み疲れているようだが、ふたつの目にある光は、今は怒りのおかげで失われていない。最初に彼を見た時のように、強い意志が感じられた。ケイカは瞳の奥に何とか、トウマの片鱗を見つけることができた。
けれど――トウマの体にまとわりついていた毛布は、完全に取り去られていた。ケイカはその姿から目が離せなかった。いまトウマは上着を羽織っていない。半袖シャツ一枚の姿で寝転がっていたからだ。肩から真っ白な腕が伸びていた。そしてケイカの眼の前にあらわになっているのは、トウマの体の正面にあるふっくらとした胸の膨らみ――
「うそ……あなた女の子、なの?」驚きながらも、ケイカの頭の中でいろいろな点が繋がっていった。「も、もしかして、あなたは色が見えるんじゃ! きっとそうだわ。だから歌いながらあんな純色を! あなた、やっぱり色楽だったのね」
「ふふ、君らしい貧素な想像力だな!」トウマは吐き捨てるように叫んだ。「残念ながら僕はもう色楽じゃあない。落伍者さ。君と同じ学校出身のね。君の大好きな『課題』に失敗したんだ。そうして身も心も壊れてしまって、気づいたら僕の眼は色を失っていた。それに器も持てなくなっていたんだよ」
持ち上げたトウマの手は安定せず、神経質に震えていた。と同時にケイカは気づいた。透けるような真っ白い手首の辺りに、うっすらとした何層もの、ためらい傷の跡が見えた。
「でもね、ケイカ。生まれてからずっと、音と色に囲まれて暮らしてきた者が、それを奪われたらどうなると思う?」トウマは震える肩を両手で押さえこんだ。「たまらなくなるんだ。息をしているのに空気が足らなくなる。見えているのに暗闇のような世界が広がってる。毎日が悪夢そのものだ。とても耐えられないんだ!」
トウマの足が力を失い、彼はベッドに座り込んだ。「だから僕は歌うんだ。自分に残された唯一の器。この体がその音に震えている時だけ、僕は体の震えを止める事ができる。でもね、僕の弱った体は長いあいだ歌うことを許してくれない。そしてまた次の出番まで、僕の周りには暗い世界が待っているのさ。人生はその繰り返し。
これが、君には見えない世界。色も音も完璧で、人生がキラキラと輝いている者にはわかりようもない! 僕は歌だけを頼りに生きてるんだ。わかるだろう? だから
ケイカは返す言葉が見つからなかった。言い返した時の怒りの炎は、いまや静かなくすぶりも残らず、消え失せてしまった。そこには虚しさを象徴するような、焦げ臭い匂いだけが漂っている気がした。
「もう帰ってくれないか……少し疲れてしまった。お帰りはその壁のブザーを押したらいい」トウマは毛布を持ち上げると、再びベッドに倒れ込んで動かなくなった。
ケイカは何も言えず、のろのろと立ち上がった。黙ったまま荷物を持ち、ちらかった楽譜を再びケースに収める。その間も、ベッドの上の小山はピクリとも動かない。
看護師を呼び出す内線の通話ボタンを押し、扉が開けられるのを待つ。扉がガチャリと音を立てた時、ケイカはうつ向いていて、すぐには動かなかった。
くるりと振り向いて、聞いているかわからない部屋の主に向かって呼びかけた。
「あの曲は私が歌うわ……もうトウマに頼む事、しないから。私、あなたの事も、自分が周りにどう思われてるかも、本当によく知らないで生きてきたみたい……好き勝手言って、ごめんなさい」
自分を見ていないのは承知の上で、ケイカは頭を下げた。
「でもね、わたしトウマの歌が聞きたかった。それだけは信じて」
その言葉だけを置いて、ケイカは病室を後にした。
(理由 おわり)