28、山羊の面
文字数 2,973文字
坂を下りてゆくと人だかりができていた。
人の波に逆らって駆け上がっていく僕の姿を見ると、皆の笑顔が一瞬、消えたが、またすぐに花火の余韻を噛みしめていた。
あの家に、もはや自分の味方はいない。
明日、学校へ行けば、学校にも味方がいないことを痛感することになるかもしれない。
今はとにかく、美星に会いたかった。
女々しいと言われても良いから、美星にまた頭を撫でられたかった。乱された心を正常に戻す唯一の手段。
ふと、羽音が聞こえてきた。
間違いない。近くに蜂がいる。
辺りに目線を向けると、なぜか竹垣に覆われた民家が僕の意識にその存在感を強く示しているように見えた。
民家は、先日の台風で破壊されている部分があったが、その隙間からピンクの花、アプテニアがうまい具合にひょっこりと顔をのぞかせていた。おばあちゃんの家の庭にも咲いていてたことがある花だ。
蜜蜂はそのアプテニアの蜜を吸っているところだった。頭を突っ込んで、花の蜜を貪る後ろ姿は何とも愛らしかった。その後、アプテニアを離れ、僕の目の高さまで迫ってきた。
悠長に眺めていた僕が、とっさに蜂の進行ルートから抜け出すことはまず無理で、内心これぞ、泣きっ面に蜂か。と、刺される覚悟で目を閉じた。
しかし、抵抗しないことが気に入られたのか、蜜蜂は羽を羽ばたかせながら僕の目をじっと見たまま。変な表現かもしれないが、この感覚は間違ってはいないだろう。
とその時、蜜蜂は8の字にダンスをした。
蜜蜂のダンスだ。
小学校の頃、昆虫図鑑を広げて調べたことがあった。
しかし、本来これは巣に戻って仲間たちに餌の場所がどれくらいの距離にあるのかを伝えるもの。夜で辺りが暗いとは言え、仲間の蜜蜂が近くを飛んでいる様子はない。
まさか、この僕自身に何か伝言が?
今この瞬間の僕の感情を拾ってくれるのが、たとえ人間でなくても構わない。生き物ならば、通じ合うこともあるはずだ。藁にもすがる思いで、目の前の蜜蜂が誘う道へとついていくことにした。
その途中、偶然にも右京ほたるの家が視界の隅に入った。ここは、彼女が十字路の交差点でわざわざ時間稼ぎをするように、斜めの交差点を渡ったり戻ったりした場所。
蜜蜂にすべてを委ねていたものの、以前と同じ道を辿っていたことが判明。
さらに、蜜蜂はかつてのほたるの奇行と同じルートを飛んでいたが、蜜蜂の飛行が曲線的だったので、交差点を中心に大きな8の字を描いていることに気づくことができた。
「8の字……」
そして、蜜蜂の羽音が止んだ時、自分は女蜂神社の社殿の前に佇んでいた。
夜は、結界が弱まるので魔物が神社に集まると聞いたことがある。不条理極まりない大人たちの世界に比べれば、そんなもの恐怖に満たない。
ふと、誰かが前方から近づいてきた。
無意識に強張っていた自分の顔がすっとほどけていく。
白い足袋と赤い鼻緒の草履がパッと目についた。周りがぐっと暗いせいか、銀色の髪と銀色の瞳もより際立って神々しい。相変わらず、広くあいた袖口が波型の風変わりな茄子紺の浴衣を着ていた。
だからこそ、大事な部分が鰐の面で隠れていることが歯痒くてたまらない。
「顔を、見せてはくれないの?」
口を突いて出る僕の本音に、美星は間を空けずに答える。
「まだまだ、こうしてお話ししていたいの。だから、ごめんね」
夢では美星の素顔を薄っすらだけれど見たことがある、そう言おうと思い立ち、やはり辞めておいた。
彼女に会ってから、この通りずっと翻弄されっぱなしだった。
「今日は、あなたもこれを被って」
手渡された面は、なんと山羊(やぎ)だった。
「なんで、僕は山羊?」
「グージーに、わざわざ訊いたのよ」
「中身がおじいちゃんみたいだって?」
美星は鰐の面から微(かす)かに見える口もとに右手をあててくすくす笑う。
「そうじゃなくて、山羊座だってことよ」
「えええ。キミの猫って占い師なの? いや、占い師より当たるな」
「グージーは、神と私たちとを繋ぐ生き物だから。べつに驚くことじゃないわ」
鵜呑みにはできなかったけれど、彼女の言葉には、神秘的なものを相手に信じさせるための説得力があった。
「そこまで言われちゃ、つけないわけにはいかないか」
山羊の面長な面を受け取ると、後頭部にゴム部分を引っ掻けて顔を覆った。
すると、さらに信じられないことが待ち受けていた。
淡い光の中に、若い頃の父、母、マサヤ伯父さんが食卓を囲っていた。最初は小さな声だったが、少しずつ三人の話し声が聞こえてきた。
「もうじき、いっちゃんのところも生まれるな」
「ああ。兄貴のお嬢さんと二歳違いとなると、切磋琢磨して逞しくなるかもしれん」
「いっちゃんとこは、名前ふたりで決めたのか?」
「いや、空から降ってきたんだ」
「空から?」
「あなた、正確に言うと庭からですよ」
「そうだった。庭から聞こえてきたんだよ」
「名前が?」
「丹司にしろって。ちょうどそん時、庭に立派な蜂の巣ができてしまったな。駆除しようと思ったんだが、どうも、子供を産む前に殺生する気になれなかったんだよ」
「周りはみんな駆除しろって言うんですけどね」
「虫にだって、家族はいるよな。個人的にその優しさに一票だなー。でも、生まれてきた瞬間、刺されて、文字通り泣きっ面に蜂じゃあシャレにならないよ、いっちゃん」
「ハハハハハ」
僕が生まれる前、父は仕事より家庭を第一に考えていたとマサヤ伯父さんから聞いたことがある。母も、僕の三つ下の弟が車事故で亡くなる前までは、よく笑う人だったと聞く。
ずっと考えないようにしていた。
特に弟の存在は。
でも思春期に入って、器用に心をコントロールすることが少しずつ難しくなっていった。
母とはできるだけ目を見て話さないよう心掛けた。
マサヤ伯父さんの突然の別れと一緒に、今まで無理やり繋いでいた家族への思いがパーンと崩壊してしまった。
また、美星の前で泣いてしまうのか俺は。
いや、こうなると知っていて、無防備な姿を見られたくないことすらお見通しで。
山羊の面を手渡してくれたのかもしれない。
俺は、山羊の面を顔面に押し付けながら号泣した。
でも、すぐに涙を払った。
山羊の面を取り、ずっと横にいてくれた美星に返した。
鰐の面で顔が見えなくとも、彼女が微笑んでくれたのがわかった。
「めんこい」
「どういう意味だよ」
「可愛いってこと。今日、参拝者のおばあちゃんが言ってたの。めんこい」
「俺は男だよ。めんこいって言うのは……」
「ん?」
その先は、中二男子の僕にはまだ言えなかった。
「よっしゃ。明日の学級裁判、受けて立ってやるわ!」
俺には、マサヤ伯父さんと美星がいる。
むろん、その言葉も胸にしまっておいた。
美星は学級裁判の詳細について詮索してくることはなかった。
ただ真っ白な華奢な手で、パチパチパチと手を叩いてくれた。
それに倣ってか、夏の虫たちも僕と美星だけのために旺盛に鳴いてくれた。
人の波に逆らって駆け上がっていく僕の姿を見ると、皆の笑顔が一瞬、消えたが、またすぐに花火の余韻を噛みしめていた。
あの家に、もはや自分の味方はいない。
明日、学校へ行けば、学校にも味方がいないことを痛感することになるかもしれない。
今はとにかく、美星に会いたかった。
女々しいと言われても良いから、美星にまた頭を撫でられたかった。乱された心を正常に戻す唯一の手段。
ふと、羽音が聞こえてきた。
間違いない。近くに蜂がいる。
辺りに目線を向けると、なぜか竹垣に覆われた民家が僕の意識にその存在感を強く示しているように見えた。
民家は、先日の台風で破壊されている部分があったが、その隙間からピンクの花、アプテニアがうまい具合にひょっこりと顔をのぞかせていた。おばあちゃんの家の庭にも咲いていてたことがある花だ。
蜜蜂はそのアプテニアの蜜を吸っているところだった。頭を突っ込んで、花の蜜を貪る後ろ姿は何とも愛らしかった。その後、アプテニアを離れ、僕の目の高さまで迫ってきた。
悠長に眺めていた僕が、とっさに蜂の進行ルートから抜け出すことはまず無理で、内心これぞ、泣きっ面に蜂か。と、刺される覚悟で目を閉じた。
しかし、抵抗しないことが気に入られたのか、蜜蜂は羽を羽ばたかせながら僕の目をじっと見たまま。変な表現かもしれないが、この感覚は間違ってはいないだろう。
とその時、蜜蜂は8の字にダンスをした。
蜜蜂のダンスだ。
小学校の頃、昆虫図鑑を広げて調べたことがあった。
しかし、本来これは巣に戻って仲間たちに餌の場所がどれくらいの距離にあるのかを伝えるもの。夜で辺りが暗いとは言え、仲間の蜜蜂が近くを飛んでいる様子はない。
まさか、この僕自身に何か伝言が?
今この瞬間の僕の感情を拾ってくれるのが、たとえ人間でなくても構わない。生き物ならば、通じ合うこともあるはずだ。藁にもすがる思いで、目の前の蜜蜂が誘う道へとついていくことにした。
その途中、偶然にも右京ほたるの家が視界の隅に入った。ここは、彼女が十字路の交差点でわざわざ時間稼ぎをするように、斜めの交差点を渡ったり戻ったりした場所。
蜜蜂にすべてを委ねていたものの、以前と同じ道を辿っていたことが判明。
さらに、蜜蜂はかつてのほたるの奇行と同じルートを飛んでいたが、蜜蜂の飛行が曲線的だったので、交差点を中心に大きな8の字を描いていることに気づくことができた。
「8の字……」
そして、蜜蜂の羽音が止んだ時、自分は女蜂神社の社殿の前に佇んでいた。
夜は、結界が弱まるので魔物が神社に集まると聞いたことがある。不条理極まりない大人たちの世界に比べれば、そんなもの恐怖に満たない。
ふと、誰かが前方から近づいてきた。
無意識に強張っていた自分の顔がすっとほどけていく。
白い足袋と赤い鼻緒の草履がパッと目についた。周りがぐっと暗いせいか、銀色の髪と銀色の瞳もより際立って神々しい。相変わらず、広くあいた袖口が波型の風変わりな茄子紺の浴衣を着ていた。
だからこそ、大事な部分が鰐の面で隠れていることが歯痒くてたまらない。
「顔を、見せてはくれないの?」
口を突いて出る僕の本音に、美星は間を空けずに答える。
「まだまだ、こうしてお話ししていたいの。だから、ごめんね」
夢では美星の素顔を薄っすらだけれど見たことがある、そう言おうと思い立ち、やはり辞めておいた。
彼女に会ってから、この通りずっと翻弄されっぱなしだった。
「今日は、あなたもこれを被って」
手渡された面は、なんと山羊(やぎ)だった。
「なんで、僕は山羊?」
「グージーに、わざわざ訊いたのよ」
「中身がおじいちゃんみたいだって?」
美星は鰐の面から微(かす)かに見える口もとに右手をあててくすくす笑う。
「そうじゃなくて、山羊座だってことよ」
「えええ。キミの猫って占い師なの? いや、占い師より当たるな」
「グージーは、神と私たちとを繋ぐ生き物だから。べつに驚くことじゃないわ」
鵜呑みにはできなかったけれど、彼女の言葉には、神秘的なものを相手に信じさせるための説得力があった。
「そこまで言われちゃ、つけないわけにはいかないか」
山羊の面長な面を受け取ると、後頭部にゴム部分を引っ掻けて顔を覆った。
すると、さらに信じられないことが待ち受けていた。
淡い光の中に、若い頃の父、母、マサヤ伯父さんが食卓を囲っていた。最初は小さな声だったが、少しずつ三人の話し声が聞こえてきた。
「もうじき、いっちゃんのところも生まれるな」
「ああ。兄貴のお嬢さんと二歳違いとなると、切磋琢磨して逞しくなるかもしれん」
「いっちゃんとこは、名前ふたりで決めたのか?」
「いや、空から降ってきたんだ」
「空から?」
「あなた、正確に言うと庭からですよ」
「そうだった。庭から聞こえてきたんだよ」
「名前が?」
「丹司にしろって。ちょうどそん時、庭に立派な蜂の巣ができてしまったな。駆除しようと思ったんだが、どうも、子供を産む前に殺生する気になれなかったんだよ」
「周りはみんな駆除しろって言うんですけどね」
「虫にだって、家族はいるよな。個人的にその優しさに一票だなー。でも、生まれてきた瞬間、刺されて、文字通り泣きっ面に蜂じゃあシャレにならないよ、いっちゃん」
「ハハハハハ」
僕が生まれる前、父は仕事より家庭を第一に考えていたとマサヤ伯父さんから聞いたことがある。母も、僕の三つ下の弟が車事故で亡くなる前までは、よく笑う人だったと聞く。
ずっと考えないようにしていた。
特に弟の存在は。
でも思春期に入って、器用に心をコントロールすることが少しずつ難しくなっていった。
母とはできるだけ目を見て話さないよう心掛けた。
マサヤ伯父さんの突然の別れと一緒に、今まで無理やり繋いでいた家族への思いがパーンと崩壊してしまった。
また、美星の前で泣いてしまうのか俺は。
いや、こうなると知っていて、無防備な姿を見られたくないことすらお見通しで。
山羊の面を手渡してくれたのかもしれない。
俺は、山羊の面を顔面に押し付けながら号泣した。
でも、すぐに涙を払った。
山羊の面を取り、ずっと横にいてくれた美星に返した。
鰐の面で顔が見えなくとも、彼女が微笑んでくれたのがわかった。
「めんこい」
「どういう意味だよ」
「可愛いってこと。今日、参拝者のおばあちゃんが言ってたの。めんこい」
「俺は男だよ。めんこいって言うのは……」
「ん?」
その先は、中二男子の僕にはまだ言えなかった。
「よっしゃ。明日の学級裁判、受けて立ってやるわ!」
俺には、マサヤ伯父さんと美星がいる。
むろん、その言葉も胸にしまっておいた。
美星は学級裁判の詳細について詮索してくることはなかった。
ただ真っ白な華奢な手で、パチパチパチと手を叩いてくれた。
それに倣ってか、夏の虫たちも僕と美星だけのために旺盛に鳴いてくれた。