10、謎の少女との再会
文字数 2,107文字
階段を下りたが、両親が起きている様子はない。
冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、半分ほどグラスに注いだ。体内に流れ込んでゆく爽快感は、夏の朝にうってつけだった。
『今日は早く学校へ行きます』その一言をメモに添えて家を出た。
玄関のドアを閉じかけた時、二階から足音が聞こえたが、無言で家を後にした。
行く先は決まっていた。
頭の中で、飼い猫のグージーを抱きかかえる少女の姿が思い出される。
たった一度しか会ったことがないのに、少女の肌や目の形や仕草まで描き起こせそうなほど記憶していることに自分でも驚きだった。
それにしても、あのふたりは現実で接点はあるのだろうか。
正直、ふたりの濃密な絡みをもっと見てみたかったという男子中学生的願望はあったが、闇が深そうな工藤乃瑛琉の発言はどこかリアルで怖ろしくもあった。
考え事をしていたせいで、途中の細道を左折していた。
線路を超えるのは初めてだ。
まっすぐ細道を進んでゆくと、民家に挟まれるようにこぢんまりとした慰霊碑広場があった。壁や塀で区切られているわけではないので、侵入はたやすい。とは言え、その付近だけ重たい空気が漂っているせいで人を寄せ付けない。
なのに、なぜ僕はそこへ誘われたのか。
中に入って砂利道を歩き進むと、桜の木に囲まれた慰霊碑が中央にあった。静かに近づいてみると、横並びに刻まれた名前がずらり。
ふと、何かが地面に落ちる音がした。
場所が場所なだけに心臓が縮み上がった。
振り返ると、そこには夢にまで見た銀髪の少女がいた。夢ではない。目の前にしっかりと存在している。今日はなぜか、とてもリアルな鰐の面をつけていた。足元に落ちていた木製の手桶を拾い、そっと渡した。
「まさか、ね……」
肝心な時に言葉が出なかった。
また怯えさせてしまっては悪いと思い、足早に立ち去ろうとした。
「待って」
か細い声だったが、とても愛らしい声音。
「どうして、こんな時間、こんなところにいるの」
僕は彼女に背を向けたまま的確な答えを探した。本音を口にするのは得意な方だったが、彼女の前ではやっぱり格好つけたくなった。
「朝は思考がクリアになるから散歩することにしてるんだ。それで、授業がすごく集中できるようになったしね」
すかさず彼女は「こんなに朝早く?」と痛いところをついてきた。見栄を張ったことがバレたも同然だった。
「は、早くに目が覚めちゃうんだ……」
直後、彼女はクスッと笑った。
「おじいちゃんみたいね」
「よく言われる」
互いの顔を見ながら一笑した。
やっぱり早起きは絶対に徳だ!
思わず、心の中で叫んでしまった。
「手桶を持ってるってことは、お参り? 誰か知り合いのお墓でもあるの?」
質問の後、彼女は視線を逸らしてうつむいた。
せっかくの良い流れを、自らナイーブな話題により壊してしまったことに後悔。
「ごめん、変なこと訊いて」
このまま沈黙が続くかと思われたが、彼女は意外にも訥々(とつとつ)と話し始めた。
「一族が滅びたの。とても誇り高き一族。自分の幸福よりも、周りの人の幸福を考えて行動する。真面目な一族。でも、とても脆い一族。意図せず周囲に危害を与えてしまうことがある。その時は、自滅を選ぶ。一族の性」
古い書物を読み解いているのかと思うほど、彼女の話は独特だった。
それだけではない。彼女の視線の先を辿ると、桜の木に見守られるようにして佇む慰霊碑があった。
地面にこぼれず残った水を手桶から柄杓で丁寧にすくうと、彼女はそれを優しく慰霊碑にかけた。
ふと、柄杓を持つ右腕に縫ったような傷跡が目に留まった。フランケンシュタインの額の傷をほうふつさせる痕だった。
彼女がお墓を清めることに専念している間、僕はずっと彼女を観察していた。文字通り頭の先から足の先と隅々まで。
相変わらず、広くあいた袖口が波型になった風変わりなデザインの浴衣。首元から足元にかけて濃淡が変わる青のグラデーション。帯についている飾りも愛らしい。筒状の紫の花。
「終わったわ。あなたも、そろそろ家に帰って学校へ行く支度した方が良いんじゃない?」
夢見心地な気分は一瞬にして弾き飛び、我に返った。
「キミの言う通りです」
慰霊碑を横切る自転車や車の数も、ここへ来た時と比べれば増えていた。
「ところで、いつまでそのお面してるの?」
次はいつ会えるかわからない。彼女の銀色の瞳、きめ細やかな肌を一目でも見ておきたかった。
「紫外線が苦手なの。今日も紫外線がはっきり見えて辛いわ」
「え、紫外線が見えるの? 面白いこと言うね。日傘はどう? お面より楽じゃない?」
「考えておくわ」
彼女は、空になった手桶に柄杓を入れて慰霊碑を背に歩き始めた。
「鬼塚丹司。名前。キミは?」
「美星(みほし)よ」
こちらを振り返ることもなく。最後まで鰐の面を取ることもなく。
名前なのか苗字なのかいまいち判別しにくい呼び名だけを置いて去ってしまった。
どこまでも不思議な少女だった。
冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、半分ほどグラスに注いだ。体内に流れ込んでゆく爽快感は、夏の朝にうってつけだった。
『今日は早く学校へ行きます』その一言をメモに添えて家を出た。
玄関のドアを閉じかけた時、二階から足音が聞こえたが、無言で家を後にした。
行く先は決まっていた。
頭の中で、飼い猫のグージーを抱きかかえる少女の姿が思い出される。
たった一度しか会ったことがないのに、少女の肌や目の形や仕草まで描き起こせそうなほど記憶していることに自分でも驚きだった。
それにしても、あのふたりは現実で接点はあるのだろうか。
正直、ふたりの濃密な絡みをもっと見てみたかったという男子中学生的願望はあったが、闇が深そうな工藤乃瑛琉の発言はどこかリアルで怖ろしくもあった。
考え事をしていたせいで、途中の細道を左折していた。
線路を超えるのは初めてだ。
まっすぐ細道を進んでゆくと、民家に挟まれるようにこぢんまりとした慰霊碑広場があった。壁や塀で区切られているわけではないので、侵入はたやすい。とは言え、その付近だけ重たい空気が漂っているせいで人を寄せ付けない。
なのに、なぜ僕はそこへ誘われたのか。
中に入って砂利道を歩き進むと、桜の木に囲まれた慰霊碑が中央にあった。静かに近づいてみると、横並びに刻まれた名前がずらり。
ふと、何かが地面に落ちる音がした。
場所が場所なだけに心臓が縮み上がった。
振り返ると、そこには夢にまで見た銀髪の少女がいた。夢ではない。目の前にしっかりと存在している。今日はなぜか、とてもリアルな鰐の面をつけていた。足元に落ちていた木製の手桶を拾い、そっと渡した。
「まさか、ね……」
肝心な時に言葉が出なかった。
また怯えさせてしまっては悪いと思い、足早に立ち去ろうとした。
「待って」
か細い声だったが、とても愛らしい声音。
「どうして、こんな時間、こんなところにいるの」
僕は彼女に背を向けたまま的確な答えを探した。本音を口にするのは得意な方だったが、彼女の前ではやっぱり格好つけたくなった。
「朝は思考がクリアになるから散歩することにしてるんだ。それで、授業がすごく集中できるようになったしね」
すかさず彼女は「こんなに朝早く?」と痛いところをついてきた。見栄を張ったことがバレたも同然だった。
「は、早くに目が覚めちゃうんだ……」
直後、彼女はクスッと笑った。
「おじいちゃんみたいね」
「よく言われる」
互いの顔を見ながら一笑した。
やっぱり早起きは絶対に徳だ!
思わず、心の中で叫んでしまった。
「手桶を持ってるってことは、お参り? 誰か知り合いのお墓でもあるの?」
質問の後、彼女は視線を逸らしてうつむいた。
せっかくの良い流れを、自らナイーブな話題により壊してしまったことに後悔。
「ごめん、変なこと訊いて」
このまま沈黙が続くかと思われたが、彼女は意外にも訥々(とつとつ)と話し始めた。
「一族が滅びたの。とても誇り高き一族。自分の幸福よりも、周りの人の幸福を考えて行動する。真面目な一族。でも、とても脆い一族。意図せず周囲に危害を与えてしまうことがある。その時は、自滅を選ぶ。一族の性」
古い書物を読み解いているのかと思うほど、彼女の話は独特だった。
それだけではない。彼女の視線の先を辿ると、桜の木に見守られるようにして佇む慰霊碑があった。
地面にこぼれず残った水を手桶から柄杓で丁寧にすくうと、彼女はそれを優しく慰霊碑にかけた。
ふと、柄杓を持つ右腕に縫ったような傷跡が目に留まった。フランケンシュタインの額の傷をほうふつさせる痕だった。
彼女がお墓を清めることに専念している間、僕はずっと彼女を観察していた。文字通り頭の先から足の先と隅々まで。
相変わらず、広くあいた袖口が波型になった風変わりなデザインの浴衣。首元から足元にかけて濃淡が変わる青のグラデーション。帯についている飾りも愛らしい。筒状の紫の花。
「終わったわ。あなたも、そろそろ家に帰って学校へ行く支度した方が良いんじゃない?」
夢見心地な気分は一瞬にして弾き飛び、我に返った。
「キミの言う通りです」
慰霊碑を横切る自転車や車の数も、ここへ来た時と比べれば増えていた。
「ところで、いつまでそのお面してるの?」
次はいつ会えるかわからない。彼女の銀色の瞳、きめ細やかな肌を一目でも見ておきたかった。
「紫外線が苦手なの。今日も紫外線がはっきり見えて辛いわ」
「え、紫外線が見えるの? 面白いこと言うね。日傘はどう? お面より楽じゃない?」
「考えておくわ」
彼女は、空になった手桶に柄杓を入れて慰霊碑を背に歩き始めた。
「鬼塚丹司。名前。キミは?」
「美星(みほし)よ」
こちらを振り返ることもなく。最後まで鰐の面を取ることもなく。
名前なのか苗字なのかいまいち判別しにくい呼び名だけを置いて去ってしまった。
どこまでも不思議な少女だった。