6、小説以外の楽しみは
文字数 2,630文字
ひとり残され、部屋全体にエリカ専用ラベルが貼られたような病室を改めて見る。枕元に一冊の小説がぽつねんと置かれている。
ベッドに腰掛け、こっそりとひっくり返して表紙を盗み見た。本のタイトルは、赤川次郎のひまつぶしの殺人。母は泥棒で、姉は詐欺師で、兄は殺し屋で、弟が警察官という偉大なる一家のミステリー小説。小学六年生の頃、図書室で借りて読んだことがある。
確かに家族のことなんてわからないものだ。
今一番わからないのは父だろう。家庭から逃げるように仕事に没頭している節がある。
まさか、ソウルメイトというのは異性だったりするのだろうか。女のために全力投球する父さんを想像してみた。やっぱりありえない。僕よりずっと父を知るマサヤ伯父さんからも、父の女遊びについて聞いたことはない。
「何やってるんだ、人のベッドで」
背後からエリカが両腕に溢れんばかりのドリンクのペットボトルを抱いて現れた。
「ビックリしたぁ。って、これから人でも呼ぶわけ?」
「呼ばないぞ。それより、そこにある紙コップを取ってくれ」
テレビ横に積まれている新しい紙コップを言われた通り手渡す。もはや彼女の用意周到さには、呆れを通り越して感心すらしてしまう。
そして、何を思ったか一つの紙コップにコーラ、緑茶、麦茶、ミックスジュース、アセロラジュース、レモンジュース、炭採水を少しずつ入れて混ぜ始めた。
「三回じゃんけんしよう。勝った方は、意地悪な質問ができるんだ。負けた方は諦めて答えるか、このジュースを飲むかの二者択一。答える方は、曖昧な返事も嘘もなしだ。どうだ、わくわくしてきただろう?」
興奮気味に話す彼女を、僕は冷ややかな目で見た。
「例大祭の準備はしなくて良いの?」
その鋭い指摘に、エリカは目をハッと見開く。
「そ、そうだった……去年のしおりにはすべて目を通したか?」
「まだだよ」
「じゃあ、それが終わってからにしよう」
結局、しおりを熟読するまでそれから5分もかからなかった。なぜなら、途中から解読不能になったから。
「面を被った人々が、神社を皮切りに坂を下りてメバチ商店街をぐるりと周って戻ってくるパレードの後に執り行われる炎のイベントって? この説明文だけ、ヒエログリフみたいなんだけど……」
エリカは、八重歯を見せて笑った。
「知りたいか?」
「まあね」
「じゃあ、ゲーム始めようか」
彼女の頭の中は、すでにじゃんけんゲーム一色だ。
丸テーブルを挟んで向き合う形で座った。
「最初はグー、じゃんけんぽん」
軽妙な賭け声で唐突に始められたじゃんけん。
最初に勝利したのは悔しいかな、エリカだった。腰に両手を当てて「ハッハッハッ」と滑舌よく笑って優位な立場を強調してきた。
「で、意地悪な質問は?」
「そうだなぁ。あ、以前、あたしがおまえに姫様には近づくなと警告したが、その後、会って話したか?」
刹那、記憶の奥で眠らされている感情が水を離れた魚の如く撥ねた。
「姫様? 姫様とは、誰のことだ?」
真顔で切り返すと、エリカは「さっき、ごまかしはご法度だと言ったばかりだぞ!」と抵抗してきた。
「ごめん。本当に何のことか分からない。いつ頃、誰に近づくなと言ったんだ?」
彼女の目を真っすぐ見て問うた。
「……後遺症かもしれないな」
しまったと言わんばかりに手で口を塞ぐ。
……後遺症。あの教室でキツネザビたちに襲われてから、頭に靄がかかってうまく思い出せないことが多い。記憶の一部を破壊されたとでも言うのだろうか。
「勝ったらどんな質問にも答えてくれるんだよな?」
こちらの気迫に彼女は肯定する。
「じゃんけんぽん」
揃って口にし、右手を突き出し合った。
軍配は僕に上がった。
「誰も登校しない日に、校舎へ入って行く僕を見かけたよな? 嫌な予感がして、兵頭に後を頼んだらしいが、生徒会長黄賀エリカと担任の岡林との関係はズバリ?」
こちらの詰問に、エリカは一呼吸置いてから答えた。
「芽八中学に在籍していれば、あたしは……あたしには……需要があって、その……」
どう答えるべきなのか、その歯切れの悪さから混乱のほどがうかがえた。
「他の中学に行っても、キミは有能だからみんなから好かれるよ」
「違う! おまえは、分かってない!」
突然、荒げた声で一蹴してきた。
「ごめん……。ただ、この市には中学校はひとつだけ。あそこにいないと、長く生きられないんだ」
冗談で言っている素振りはまるでない。
彼女は本気だ。
「そうか。わかったよ」
むろん、これで納得できるわけなかった。
互いの言い分はあったが、最後のじゃんけんをした。
またもこちらの勝ち。
だが、エリカの顔は青白くなっていた。
正直、質問したいことは果てしなくある。
パレード後に行われる儀式の説明文が、なぜヒエログリフのような解読不能な文字で書かれているのか。他にも、生徒会で亡くなった四人の名前や、監視人について知っていることはあるか。さらには、電波塔のことや、配合1007の薬の謎。
どの質問も、芽八市を取り巻く謎の解明につながりそうなものばかりだ。それなのに、自らそのチャンスをひとつ葬ってしまった。
「どうして、この密室に、それも夜遅くに僕を呼んだ?」
淡々と告げたが、心臓はバクバク張り裂けそうだった。
「知ってるだろう」
「何が?」
「あたしの睡魔は、下手すると二度と目を覚ますことがないかもしれないんだ。いつもは午前中だけだったが、頻度が増えている。病院に入院したのも、自分の意志だ。家の中で硬直したまま動かないあたしの第一発見者が母になることだけは避けたかった。さらに言えば、誰かといたかった」
エリカは、ややつり上がった瞳で上目遣いにこちらを見た。
「できれば、小説の面白さを教えてくれたおまえと……いたかった」
ふわっと、僕に抱きついてきた。
エリカの甘い匂いに包まれる。
長く明るい色の髪が鼻先をくすぐる。
とにかく、とても柔らかい。
あのエリカが、僕の胸に小さく収まっていた。
「まだ、小説以外にも楽しみは」
そう彼女が甘く囁いた時、雰囲気をぶち壊す非常ベルがけたたましく鳴った。
ベッドに腰掛け、こっそりとひっくり返して表紙を盗み見た。本のタイトルは、赤川次郎のひまつぶしの殺人。母は泥棒で、姉は詐欺師で、兄は殺し屋で、弟が警察官という偉大なる一家のミステリー小説。小学六年生の頃、図書室で借りて読んだことがある。
確かに家族のことなんてわからないものだ。
今一番わからないのは父だろう。家庭から逃げるように仕事に没頭している節がある。
まさか、ソウルメイトというのは異性だったりするのだろうか。女のために全力投球する父さんを想像してみた。やっぱりありえない。僕よりずっと父を知るマサヤ伯父さんからも、父の女遊びについて聞いたことはない。
「何やってるんだ、人のベッドで」
背後からエリカが両腕に溢れんばかりのドリンクのペットボトルを抱いて現れた。
「ビックリしたぁ。って、これから人でも呼ぶわけ?」
「呼ばないぞ。それより、そこにある紙コップを取ってくれ」
テレビ横に積まれている新しい紙コップを言われた通り手渡す。もはや彼女の用意周到さには、呆れを通り越して感心すらしてしまう。
そして、何を思ったか一つの紙コップにコーラ、緑茶、麦茶、ミックスジュース、アセロラジュース、レモンジュース、炭採水を少しずつ入れて混ぜ始めた。
「三回じゃんけんしよう。勝った方は、意地悪な質問ができるんだ。負けた方は諦めて答えるか、このジュースを飲むかの二者択一。答える方は、曖昧な返事も嘘もなしだ。どうだ、わくわくしてきただろう?」
興奮気味に話す彼女を、僕は冷ややかな目で見た。
「例大祭の準備はしなくて良いの?」
その鋭い指摘に、エリカは目をハッと見開く。
「そ、そうだった……去年のしおりにはすべて目を通したか?」
「まだだよ」
「じゃあ、それが終わってからにしよう」
結局、しおりを熟読するまでそれから5分もかからなかった。なぜなら、途中から解読不能になったから。
「面を被った人々が、神社を皮切りに坂を下りてメバチ商店街をぐるりと周って戻ってくるパレードの後に執り行われる炎のイベントって? この説明文だけ、ヒエログリフみたいなんだけど……」
エリカは、八重歯を見せて笑った。
「知りたいか?」
「まあね」
「じゃあ、ゲーム始めようか」
彼女の頭の中は、すでにじゃんけんゲーム一色だ。
丸テーブルを挟んで向き合う形で座った。
「最初はグー、じゃんけんぽん」
軽妙な賭け声で唐突に始められたじゃんけん。
最初に勝利したのは悔しいかな、エリカだった。腰に両手を当てて「ハッハッハッ」と滑舌よく笑って優位な立場を強調してきた。
「で、意地悪な質問は?」
「そうだなぁ。あ、以前、あたしがおまえに姫様には近づくなと警告したが、その後、会って話したか?」
刹那、記憶の奥で眠らされている感情が水を離れた魚の如く撥ねた。
「姫様? 姫様とは、誰のことだ?」
真顔で切り返すと、エリカは「さっき、ごまかしはご法度だと言ったばかりだぞ!」と抵抗してきた。
「ごめん。本当に何のことか分からない。いつ頃、誰に近づくなと言ったんだ?」
彼女の目を真っすぐ見て問うた。
「……後遺症かもしれないな」
しまったと言わんばかりに手で口を塞ぐ。
……後遺症。あの教室でキツネザビたちに襲われてから、頭に靄がかかってうまく思い出せないことが多い。記憶の一部を破壊されたとでも言うのだろうか。
「勝ったらどんな質問にも答えてくれるんだよな?」
こちらの気迫に彼女は肯定する。
「じゃんけんぽん」
揃って口にし、右手を突き出し合った。
軍配は僕に上がった。
「誰も登校しない日に、校舎へ入って行く僕を見かけたよな? 嫌な予感がして、兵頭に後を頼んだらしいが、生徒会長黄賀エリカと担任の岡林との関係はズバリ?」
こちらの詰問に、エリカは一呼吸置いてから答えた。
「芽八中学に在籍していれば、あたしは……あたしには……需要があって、その……」
どう答えるべきなのか、その歯切れの悪さから混乱のほどがうかがえた。
「他の中学に行っても、キミは有能だからみんなから好かれるよ」
「違う! おまえは、分かってない!」
突然、荒げた声で一蹴してきた。
「ごめん……。ただ、この市には中学校はひとつだけ。あそこにいないと、長く生きられないんだ」
冗談で言っている素振りはまるでない。
彼女は本気だ。
「そうか。わかったよ」
むろん、これで納得できるわけなかった。
互いの言い分はあったが、最後のじゃんけんをした。
またもこちらの勝ち。
だが、エリカの顔は青白くなっていた。
正直、質問したいことは果てしなくある。
パレード後に行われる儀式の説明文が、なぜヒエログリフのような解読不能な文字で書かれているのか。他にも、生徒会で亡くなった四人の名前や、監視人について知っていることはあるか。さらには、電波塔のことや、配合1007の薬の謎。
どの質問も、芽八市を取り巻く謎の解明につながりそうなものばかりだ。それなのに、自らそのチャンスをひとつ葬ってしまった。
「どうして、この密室に、それも夜遅くに僕を呼んだ?」
淡々と告げたが、心臓はバクバク張り裂けそうだった。
「知ってるだろう」
「何が?」
「あたしの睡魔は、下手すると二度と目を覚ますことがないかもしれないんだ。いつもは午前中だけだったが、頻度が増えている。病院に入院したのも、自分の意志だ。家の中で硬直したまま動かないあたしの第一発見者が母になることだけは避けたかった。さらに言えば、誰かといたかった」
エリカは、ややつり上がった瞳で上目遣いにこちらを見た。
「できれば、小説の面白さを教えてくれたおまえと……いたかった」
ふわっと、僕に抱きついてきた。
エリカの甘い匂いに包まれる。
長く明るい色の髪が鼻先をくすぐる。
とにかく、とても柔らかい。
あのエリカが、僕の胸に小さく収まっていた。
「まだ、小説以外にも楽しみは」
そう彼女が甘く囁いた時、雰囲気をぶち壊す非常ベルがけたたましく鳴った。