4、これは恋なのか?グージーなのか?
文字数 1,795文字
夏の匂いが普通どういうものなのかはわからないが、芽八市には何とも形容しがたい独特の香りが漂っていた。この香りが僅かでも濃くなれば眩暈がしてしまいそうな危うさがある。
近くに果樹園や、お菓子工場でもあるのかと疑ったが、それとはまた違う甘さである気もする。
校門を左折し、さらに角の交番を左折して北に坂道をのぼると自宅があったが、今日は坂道手前の分岐点で左に曲がった。
僕は早くこの町に慣れたかった。
自宅から近いメバチ商店街は、総菜屋、肉屋、花屋、写真屋、八百屋、印鑑屋などが立ち並ぶが、どの店も古めかしい雰囲気を漂わせていた。
ひとつ気になったのは、店番をしている者がすべて女だということ。
魚屋や肉屋の店の奥で食材を包丁で豪快にさばいている者まで女の人だった。中学の男女比にも随分と偏りがあったことと無関係ではないだろう。
商店街の終わりが見えてきたところでリターンしようとしたが、金ぴかの建物が視界をとらえた。その場からでも、金ぴかの家の塀に書かれた『工房』の文字だけは確認できた。
これだけ収穫があれば十分だろう。
商店街の雰囲気や、行き交う人々、自動販売機の場所や建物の古さなどをひととおり見終わると、来た道をゆっくりと戻った。
道路を渡って自宅へと続く細い夕暮れの坂道。
まだまだ僕には新しい道だった。
シャツの下に着ていたインナーは、すっかり汗ばんでいた。周囲から聞こえる蝉の声でよけいに暑さを感じる。
「グージー! グージー!」
ふと、少女の声が聞こえてきた。
細く澄んだ声。
坂の上からだ。
「グージー! グージー!」
また声がする。
自宅は右折した先にあったが、僕は思わず足を止める。
グージーにピンとくるものはなかったが、その澄んだ声に強く惹きつけられた。
しかし、そこで声は途絶えた。
別の道に入ってしまったのだろうか。
「グージー! グージー!」
ふいに、声の主が目の前に現れた。
遠ざかったとばかり思っていたので、心の準備ができていなかったのもあるが、それ以上に、彼女の容姿に胸がときめいた。
色素の薄い銀色の瞳をした華奢な少女。青白い素肌に茄子紺色の浴衣を着ている。
見上げる僕に気づいたのか、露骨に顔をこわばらせた。
少女はすぐに顔を伏せて元来た道へと慌てて引き返そうとしたが、僕のすぐ後ろから聞こえた猫の鳴き声に足を止めた。
大柄な体に反して、子猫のように頼りない声を持つキジ白猫。
黒く長い尻尾を地面の上で小さく揺らしている。
僕は、キジ白猫と前方で立ち止まった少女とを交互に見やった。
「探しているのは、この子?」
優しく尋ねたつもりだったが、返事どころか彼女はこちらに顔を見せまいと、露骨にプイと逸らした。
底の低いサンダルで近づいてくるなり、慣れた手つきでキジ白猫を抱き上げた。
彼女の胸元で、キジ白猫は甘く「にゃーう、にゃーう」と鳴いていたが、特に話しかけるふうでもなく、歩きにくそうなサンダルで坂を無言で駆け上っていった。
ただそれだけのことなのに、少女の一挙手一投足に目を奪われた。淡く儚い夢を見たような心地がした。
帰宅してから風呂に入っても、猫を探していた浴衣姿の少女のことばかり考えていた。異国の血でも混じっているのだろうか。銀色を帯びた瞳が色濃く記憶に残っていた。
しかし、こちらの姿を認めた瞬間、極端に怯んだのが気がかりだった。
男が怖いのか、それとも根っからの人見知りなのか。
見た目だけで判断すれば、自分と同じ中学生だろう。
このあたりに住んでいれば、学区は芽八中学になる。
あるいは、僕と同じでもともと余所者であり、家庭の事情か何かで親戚の家に身を寄せているのかもしれない。芽八の出身ではい可能性を考えると、勝手に親近感が持てた。
そんな甘美な想いに酔いしれながら、おもむろにノートパソコンを開いた。
引っ越し後、優先的に父のネットの方を開通させたので、自分のPCでネットを楽しむのは久しぶりだった。
しかし、大好きなPCすら上の空。
妄想は膨らむばかりだった。
また、会えるだろうか。
PCの液晶から目を離し、ふいにカーテンの隙間から見える薄闇の空を見た。
必死に坂を駆け上がってゆく少女の姿がまた思い出された。
近くに果樹園や、お菓子工場でもあるのかと疑ったが、それとはまた違う甘さである気もする。
校門を左折し、さらに角の交番を左折して北に坂道をのぼると自宅があったが、今日は坂道手前の分岐点で左に曲がった。
僕は早くこの町に慣れたかった。
自宅から近いメバチ商店街は、総菜屋、肉屋、花屋、写真屋、八百屋、印鑑屋などが立ち並ぶが、どの店も古めかしい雰囲気を漂わせていた。
ひとつ気になったのは、店番をしている者がすべて女だということ。
魚屋や肉屋の店の奥で食材を包丁で豪快にさばいている者まで女の人だった。中学の男女比にも随分と偏りがあったことと無関係ではないだろう。
商店街の終わりが見えてきたところでリターンしようとしたが、金ぴかの建物が視界をとらえた。その場からでも、金ぴかの家の塀に書かれた『工房』の文字だけは確認できた。
これだけ収穫があれば十分だろう。
商店街の雰囲気や、行き交う人々、自動販売機の場所や建物の古さなどをひととおり見終わると、来た道をゆっくりと戻った。
道路を渡って自宅へと続く細い夕暮れの坂道。
まだまだ僕には新しい道だった。
シャツの下に着ていたインナーは、すっかり汗ばんでいた。周囲から聞こえる蝉の声でよけいに暑さを感じる。
「グージー! グージー!」
ふと、少女の声が聞こえてきた。
細く澄んだ声。
坂の上からだ。
「グージー! グージー!」
また声がする。
自宅は右折した先にあったが、僕は思わず足を止める。
グージーにピンとくるものはなかったが、その澄んだ声に強く惹きつけられた。
しかし、そこで声は途絶えた。
別の道に入ってしまったのだろうか。
「グージー! グージー!」
ふいに、声の主が目の前に現れた。
遠ざかったとばかり思っていたので、心の準備ができていなかったのもあるが、それ以上に、彼女の容姿に胸がときめいた。
色素の薄い銀色の瞳をした華奢な少女。青白い素肌に茄子紺色の浴衣を着ている。
見上げる僕に気づいたのか、露骨に顔をこわばらせた。
少女はすぐに顔を伏せて元来た道へと慌てて引き返そうとしたが、僕のすぐ後ろから聞こえた猫の鳴き声に足を止めた。
大柄な体に反して、子猫のように頼りない声を持つキジ白猫。
黒く長い尻尾を地面の上で小さく揺らしている。
僕は、キジ白猫と前方で立ち止まった少女とを交互に見やった。
「探しているのは、この子?」
優しく尋ねたつもりだったが、返事どころか彼女はこちらに顔を見せまいと、露骨にプイと逸らした。
底の低いサンダルで近づいてくるなり、慣れた手つきでキジ白猫を抱き上げた。
彼女の胸元で、キジ白猫は甘く「にゃーう、にゃーう」と鳴いていたが、特に話しかけるふうでもなく、歩きにくそうなサンダルで坂を無言で駆け上っていった。
ただそれだけのことなのに、少女の一挙手一投足に目を奪われた。淡く儚い夢を見たような心地がした。
帰宅してから風呂に入っても、猫を探していた浴衣姿の少女のことばかり考えていた。異国の血でも混じっているのだろうか。銀色を帯びた瞳が色濃く記憶に残っていた。
しかし、こちらの姿を認めた瞬間、極端に怯んだのが気がかりだった。
男が怖いのか、それとも根っからの人見知りなのか。
見た目だけで判断すれば、自分と同じ中学生だろう。
このあたりに住んでいれば、学区は芽八中学になる。
あるいは、僕と同じでもともと余所者であり、家庭の事情か何かで親戚の家に身を寄せているのかもしれない。芽八の出身ではい可能性を考えると、勝手に親近感が持てた。
そんな甘美な想いに酔いしれながら、おもむろにノートパソコンを開いた。
引っ越し後、優先的に父のネットの方を開通させたので、自分のPCでネットを楽しむのは久しぶりだった。
しかし、大好きなPCすら上の空。
妄想は膨らむばかりだった。
また、会えるだろうか。
PCの液晶から目を離し、ふいにカーテンの隙間から見える薄闇の空を見た。
必死に坂を駆け上がってゆく少女の姿がまた思い出された。