30、対話
文字数 1,952文字
息ができない。
目を開けると、何かで顔を覆われていた。横たわったまま、右手でそっとそれを外す。
鰐のお面。
美星がいつも装着しているあのお面だ。リアルな外見をしてはいたが、手作りの風合いを残している。
きつい腐臭が鼻腔を刺激した。
ごつごつとは違うが、ぬめぬめとも違う。知らぬ間に、得体のわからないものが左手に付着しているではないか。おずおずとそれを顔に近づけると、ギャーと悲鳴交じりの声が出た。
視界一面が死屍累々の蜂で埋め尽くされていた。慌てて無数の蜂の亡骸に触れていた両手を地面から即座に引き離した。
ここはどこだ?
洞穴のような暗い場所であることは間違いない。一縷の望みを強調するような細い光がさす、高さ一メートルは下らないであろう入り口は丸く象られていた。
態勢を起こそうとしたが、周囲のおぞましい風景を前に卒倒して体が硬直してしまう。
「起きたのね」
狭い空間に反響したその澄んだ声は、まぎれもなく美星のものだった。
洞穴のさらに奥の方から現れた彼女は、僕の目の高さでしゃがみこんだ。いつもの鰐のお面をつけていなかったので、可憐な素顔に心臓が止まりそうになった。
彼女の身体からは、ほのか、ではなく、もっと独特の厚みのある甘い香がする。不思議なことに随分と昔から知っている匂いであるような気がした。
「僕が見た夢は、きっと、夢じゃないんだね?」
美星は申し訳なさそうにうなずく。
「君は、やっぱり神聖な存在だったんだね。500年以上も前から」
その問いに美星は薄い唇を前歯で浅く噛んだ。銀色の瞳に、少しやつれて見える僕の顔が映っていた。
「父と話したい。どこに行けばいい?」
決意に満ちた声で訊くと、洞穴の奥から誰かが来る気配があった。
手提灯を右手に持って現れた白衣姿の父は、感情を読み取りにくい表情をしていた。美星は入れ替わるようにして洞穴の奥へと戻っていった。
父は蜂の死骸を足で避けて壁の凹凸がある部分に腰かけた。僕も蜂の群れから離れ、父と向かい合うように反対側の壁に背中をもたれた。
「父さんにとって、大事なものってなに?」
自分の声は思ったよりも掠れていた。白衣と同じくらい真っ白な髪と口髭は変わらなかったが、頬にやつれのあとを見た。
父は僕を一瞥してから足元に視線を落とし、深く息を吐いた。
「丹司には、見放されてしまうかもしれんが、常に移り変わるものかも、しれないな」
自嘲気味に父は言った。
「父さんは、この町へ引っ越してくる前に、家族がバラバラになってしまうかも、危ない目に遭わせてしまうかもとか、そういう心配はなかったの?」
痛恨の一言だったのか、父はしばらく黙っていた。僕はひんやりとした壁に頭をつけて目を閉じる。この夏に体験した悲喜こもごもが走馬灯のように思い出される。
「僕には、どんな大人になってもらいたい?」
目を開けてまた質問。
「そうだなぁ、人との出会いは財産だから、みんなから好かれるような人間であって欲しいな」
「父さんの財産は、ちゃんとお金とか権力とかじゃなくて、人との出会いになってる?」
普段ならば、生意気なこと言っている暇があったらと一蹴されるだろう。しかし、父は僕の言葉を真摯に受け止めている様子だった。
「すまん。でも、信じてやってくれ。あいつのことも、家族のことも大切に思ってる。正しい愛し方ではないのかもしれんが……」
いつしか父の嗚咽がこの薄闇で響き渡っていた。
「僕はまだそんなに長く生きてないけど、みんないろんな事情を持って生きているんだよね。受け入れられない運命も多いけど、父さんも親友さんもしっかり受け止めて自分の責任をまっとうしたんだよ……ね?」
そうでなきゃ、皮肉なことに僕は美星とは出会えなかった。その言葉は父さんには告げず、胸の奥にしまっておくことにした。
「あ、今何時か分かる?」
ポケットから携帯を取り出して確認するのと父が腕時計を見るのはほぼ同時だった。
「四時半だ」
「やばい、お面の夜祭パレードって五時からだよね?」
「ああ、そこから出れば行ける」
背中を丸めてすっかり縮こまった父は、外界の光が差し込む方向を指さした。
「……父さんは、見に行かないの?」
「道隆を乗せた神輿も終わった。父さんがそばにいてやらんと、あいつが寂しがるからな」
かつてのソウルメイトを父は帝王貝細工と言わなかった。ましてや、ご神体とも。今はそっとしておくのが良いのかもしれない。そう判断し、俯いた父を置いて外へ出た。
身体を伸ばしながら歩いていると、手足に数か所かすり傷があった。とは言え、パレードを見る分にはまったく支障がなさそうで安堵した。
目を開けると、何かで顔を覆われていた。横たわったまま、右手でそっとそれを外す。
鰐のお面。
美星がいつも装着しているあのお面だ。リアルな外見をしてはいたが、手作りの風合いを残している。
きつい腐臭が鼻腔を刺激した。
ごつごつとは違うが、ぬめぬめとも違う。知らぬ間に、得体のわからないものが左手に付着しているではないか。おずおずとそれを顔に近づけると、ギャーと悲鳴交じりの声が出た。
視界一面が死屍累々の蜂で埋め尽くされていた。慌てて無数の蜂の亡骸に触れていた両手を地面から即座に引き離した。
ここはどこだ?
洞穴のような暗い場所であることは間違いない。一縷の望みを強調するような細い光がさす、高さ一メートルは下らないであろう入り口は丸く象られていた。
態勢を起こそうとしたが、周囲のおぞましい風景を前に卒倒して体が硬直してしまう。
「起きたのね」
狭い空間に反響したその澄んだ声は、まぎれもなく美星のものだった。
洞穴のさらに奥の方から現れた彼女は、僕の目の高さでしゃがみこんだ。いつもの鰐のお面をつけていなかったので、可憐な素顔に心臓が止まりそうになった。
彼女の身体からは、ほのか、ではなく、もっと独特の厚みのある甘い香がする。不思議なことに随分と昔から知っている匂いであるような気がした。
「僕が見た夢は、きっと、夢じゃないんだね?」
美星は申し訳なさそうにうなずく。
「君は、やっぱり神聖な存在だったんだね。500年以上も前から」
その問いに美星は薄い唇を前歯で浅く噛んだ。銀色の瞳に、少しやつれて見える僕の顔が映っていた。
「父と話したい。どこに行けばいい?」
決意に満ちた声で訊くと、洞穴の奥から誰かが来る気配があった。
手提灯を右手に持って現れた白衣姿の父は、感情を読み取りにくい表情をしていた。美星は入れ替わるようにして洞穴の奥へと戻っていった。
父は蜂の死骸を足で避けて壁の凹凸がある部分に腰かけた。僕も蜂の群れから離れ、父と向かい合うように反対側の壁に背中をもたれた。
「父さんにとって、大事なものってなに?」
自分の声は思ったよりも掠れていた。白衣と同じくらい真っ白な髪と口髭は変わらなかったが、頬にやつれのあとを見た。
父は僕を一瞥してから足元に視線を落とし、深く息を吐いた。
「丹司には、見放されてしまうかもしれんが、常に移り変わるものかも、しれないな」
自嘲気味に父は言った。
「父さんは、この町へ引っ越してくる前に、家族がバラバラになってしまうかも、危ない目に遭わせてしまうかもとか、そういう心配はなかったの?」
痛恨の一言だったのか、父はしばらく黙っていた。僕はひんやりとした壁に頭をつけて目を閉じる。この夏に体験した悲喜こもごもが走馬灯のように思い出される。
「僕には、どんな大人になってもらいたい?」
目を開けてまた質問。
「そうだなぁ、人との出会いは財産だから、みんなから好かれるような人間であって欲しいな」
「父さんの財産は、ちゃんとお金とか権力とかじゃなくて、人との出会いになってる?」
普段ならば、生意気なこと言っている暇があったらと一蹴されるだろう。しかし、父は僕の言葉を真摯に受け止めている様子だった。
「すまん。でも、信じてやってくれ。あいつのことも、家族のことも大切に思ってる。正しい愛し方ではないのかもしれんが……」
いつしか父の嗚咽がこの薄闇で響き渡っていた。
「僕はまだそんなに長く生きてないけど、みんないろんな事情を持って生きているんだよね。受け入れられない運命も多いけど、父さんも親友さんもしっかり受け止めて自分の責任をまっとうしたんだよ……ね?」
そうでなきゃ、皮肉なことに僕は美星とは出会えなかった。その言葉は父さんには告げず、胸の奥にしまっておくことにした。
「あ、今何時か分かる?」
ポケットから携帯を取り出して確認するのと父が腕時計を見るのはほぼ同時だった。
「四時半だ」
「やばい、お面の夜祭パレードって五時からだよね?」
「ああ、そこから出れば行ける」
背中を丸めてすっかり縮こまった父は、外界の光が差し込む方向を指さした。
「……父さんは、見に行かないの?」
「道隆を乗せた神輿も終わった。父さんがそばにいてやらんと、あいつが寂しがるからな」
かつてのソウルメイトを父は帝王貝細工と言わなかった。ましてや、ご神体とも。今はそっとしておくのが良いのかもしれない。そう判断し、俯いた父を置いて外へ出た。
身体を伸ばしながら歩いていると、手足に数か所かすり傷があった。とは言え、パレードを見る分にはまったく支障がなさそうで安堵した。