33、時を超えて
文字数 4,926文字
目を開けると、いや、まぶたは開かない。意識だけが覚めた感じだ。上下に揺れている。骨ばった背中に僕の身体は委ねられていた。誰かが軽々と僕をおぶって歩いている。
「丹司が小さい頃、例大祭の日、この町に来てたよね?」
心地良い声音。
すっと息を吐いた。
「どうして、忘れていたんだろう」
「きっと、弟さんの命を奪った毒のせいかも?」
「やっぱりあの時……」
好奇心の塊だった浩司の汗ばんだ手の感触と、最期にうなされた様子が目の裏に甦る。
「丹司も、刺されたよね」
素朴な声で美星は言った。反射的に右手を腹部に持っていった。
「でも、私たち純粋な女蜂は人を刺さないの。私の統率力が足りなかったせいね。いつの時代も反乱分子は現れてしまうけれど、人間に、いえ、丹司に危害を加える前に動くべきだった」
「美星は悪くないよ!」
とっさに声を荒げていた。それだけは、どうしても全否定したかった。
「女蜂については、常識を逸脱しているところがあるから、やっぱりよくわかんないけど。でも」
「その気持ちは嬉しいわ」
最後まで言い終わらないうちに美星は言葉を被せてきた。そして、急に会話は途切れた。談笑する声や、賑やかな祭りの音がまったく聞こえてこない。
どこへ向かっているのか。病院だろうか。電波塔だろうか。
それとも、僕たちが再会を果たした慰霊碑広場か。はたまた、結界を超えた先にある新世界か。その予想を裏切るように、間の抜けた花火の音がした。
「これを言ったら、私は完全に女王失格だろうけど……、それでも、丹司には伝えたいことがあるの」
決意に満ちた一言で、場の空気は一変。
背中から下り、きちんと彼女の魅惑的な銀色の瞳を見ながら大事な告白を聞きたかった。なのに、瞼や手足には痙攣があり思いどおりに動けない。
「私は女蜂族の女王蜂でありながら、人を好きになってしまった。純粋な人間、それも女蜂神社からは遠い場所で生まれ育った男の人を」
美星は「ヨソモノ」という言葉を敢えて使わない。
「鬼月丹司、私はあなたを心から愛してしまったの」
目頭が痺れるように熱くなった。ずっと待っていた言葉。ずっと伝えたかった言葉。
「僕も、美星のことを好きだよ」
「ふふ」
「何がおかしいの?」
「女王蜂には、独特なフェロモンがあるの。丹司は、それにやられてしまったのね」
「なんか、人ごとだなぁ」
美星の身体が揺れた。
「それから、ほたるを責めないで欲しいの」
「えっ?」
「恋をすると女王蜂の生命力は弱まってゆくの。絶滅の危機に何度も陥った女蜂族の統率者なのに、また私は同じことを繰り返そうとしている……。そんな私から生まれたと言っても過言ではない、ほたる、乃瑛琉、エリカのうち、ほたるは群を抜いて周囲の変化を察する能力に長けている。女王蜂の衰弱にいち早く気づき、コロニーを建て直そうとしたの。ただ、それだけのことだから」
必死に仲間を気遣う美星。女蜂族の血を微塵も受け継いでいない僕が、とやかくいうことではなかった。互いに別々の葛藤を抱いているのだ。
僕たちの幼き恋、でも本気の想いによって無意識に無数の命を潰そうとしているのかと思うと胸が締め付けられる思がした。
突然、身体が浮遊した気がした。
飛んでいるのだろうか?彼女は人の心を持ちながら、人ではないのだ。飛べたとしても驚くことではないのかもしれない。高い場所から受ける夜風を肌に感じた。
「一度は僕を遠ざけたのって、その女王蜂としての権威を失ってしまうから?」
ふいに美星の背中からただならぬ緊張感を察した。場違いな質問をしてしまったことを後悔する。
「でも、しょせん私は偽女王。女王蜂の真似事しかできない」
落ち着き払ったその声は巫女の右京ほたる。
「偽女王は、女蜂を生み出すことも支えることでもできない。雄蜂たちを増やすので精一杯。むろん、新しいコロニーを形成できず最終的には滅んでしまう」
皮肉交じりというよりは、己の非運を嘆くような口ぶり。
やがて、蜂の羽音が頭上から聞こえてきた。一匹や、二匹ではない。ものすごい大群だ。下手すればちょっとした軍用機の音に聞こえなくもない。
そして、美星は僕を背中から下ろすと、別の肩に預けた。洋服ではなく緋袴の手触りから察して、それが右京ほたるだとすぐにわかった。それなのに、まだ自分の目は開かない。しかたなく暗闇の中で必死に耳をそばだてる。
「離せ、離せよ!」
突然、およそ十メートル先から相沢の乱暴な声が聞こえてきた。女蜂族の蜂たちに身柄を拘束されているのだろうか。
「鬼月、おまえはまだ生きてたのか! そこの巫女も、名前だけが独り歩きしている女王蜂も、よくまぁ雁首揃えて」
興奮しながら激しく罵ってきた。
「おまえたちは、仲間を裏切ることになるんだぞ? 女王として、女帝として、恥ずかしいと思わないのか? ああ、美星は何度も同じ過ちを繰り返す、ただの色魔だったな。右京ほたる、おまえもしょせんはニセモノだ。ニセモノの女帝め!」
美星らに罵詈雑言を浴びせ続ける相沢。怒りの声だけしか聞こえないが、とても哀れに思えてならなかった。
「相沢くんのお父さんは、助けに来ないのかい?」
後先考えずに僕は思ったことを口にした。相沢は高らかに嘲笑う。
「ものすごい兵器を持って助けに来てくれるさ。金持ちは、自分の身は自分で守る。おまえら有象無象は、とっととこの世の塵芥となって消えてしまえ! ヒャーッハッハッハッ」
言い返したい気持ちは山々だったが、美星やほたるの発言を待つ。
「でも、しょせんは相沢、あなたも乃瑛琉が生み出す薬がなければまともに日常生活は送れない。それなのに、なぜ女蜂族に受け継がれる唯一の規律を守れらなかったの? ビジネスに目が眩んだ? 人間の悪い部分に染まった? 雄蜂としての使命に背き、規律を乱し、美星様を侮辱した罪は死罪にあたるわよ」
右京ほたるの突き放した声色は、横で聞いているだけで戦慄させた。
やがて、蜂の大群だろうか。大きな乗り物のエンジンにも似た、けたたましい音が空間を満たしてゆく。
ふっと、視界が開けてきた。
今立っている場所は、転校初日に裏生徒会メンバーから連れて行かれた屋上。
電波塔の半分から先端にかけて薄気味悪く黒光りしてこちらを見下ろしている。だがすぐに、電波塔よりも目の前の光景に視線が釘付けとなった。とっさに嫌な記憶が思い出される。
蒼白とした顔に虚ろな目をした女子生徒らは、まさにあの学級裁判で集まった生気のない元生徒会メンバーと似た負の雰囲気をまとっているのだ。彼女たちは、二メートルもない丸太を取り囲んでいた。しかも丸太には相沢が手足の自由を奪われて磔(はりつけ)にされているではないか。甘ったるさを匂い立たせ、なお且つ粘着性のあるハチミツのようなもので全身を巻かれている。
さらにその横で蜂の大群は、奇妙に交差したジャングルジムこようなものを身体を張って形成している真っ只中だ。
その蜂球の中にも、相沢の傍にも、ましてや僕とほたるの手の届く場所にも、やはり美星の姿は見当たらず。
そのうち、屋上の気温が急速に上昇していくのを肌で感じた。蜂の羽音もどんどん音量を増してゆく。両手で耳を抑えたくなるほどやかましかったが、僕は最後まで皆の言い分を取りこぼさないように努めた。
「地獄に堕ちろ! おまえら全員、地獄に堕ちろ! 偉大なる僕の父が、直におまえらを滅ぼすだろう!」
もはや彼の声はガラガラにしゃがれていた。その台詞のすぐあとで、相沢の顔面は取り囲んでいた蜂たちによって覆われて瞬く間に見えなくなった。
「熱い! 熱い! ああああああああああああああああああ!」
屋上で、不吉に響く断末魔。
丸太に貼り付けられた相沢は、女蜂族の天敵とみなされ、球を作っていた大群の中に押し込められ、熱と強烈な圧迫を受けて絶命。熱殺蜂球の刑は、あまりに強烈で凄惨なものだった。
やがて、蜂の大群が形成した球は崩れ去った。あとには身を縮ませた丸焦げの黒い相沢の焼死体と、青白い顔の美星だけが残った。
僕は、ほたるの肩を離れ胃の中のものを思わず足元に吐き出してしまった。
「今年の例大祭も、やっぱり死人が出てしまったね」
ほたるの声は、いつになく柔らかい。
「ふたりとも、この場所から離れて。いますぐに!」
ふいに蒼褪めた顔で、美星は僕たちに厳命してきた。なぜ?と尋ねようとした僕の背中を、ほたるは両手で押しながら階段の方へと疾走した。
「ちょっと、待ってよ! 何? 何が起こるの?」
突如、頭上から轟音が近づいてきた。
AIZAWAと書かれた大きな迷彩柄のヘリコプターが二台。ものすごい風圧を受け、足を持っていかれそうになった。
ヘリコプターのドアが開き、数人がベランダに着地。武装したふたりのうち、ひとりの男は手際よく相沢の遺体をヘリコプターの中で待機する者へ引き渡した。もう片方の男は、その場に膝から崩れた。相沢の父なのかと、直感が働いた。
しかし、そっちに動向に目を奪われていたのは致命的なミスだった。美星に向かって武装した男がひとり、見るからに物騒なホースから何かを大量に噴射させようとしていたのだ。
とっさにほたるの手を振り払い、僕は美星のもとへと駆けつけた。周りの景色がすべてスローモーションのように流れた。強力な殺虫剤を背中に受け、激しい痛みが走った。
純粋に美星を救いたい、何としてでも救いたい。歯を食いしばり、その激痛を押し出す気持ちで強く願った。
すると、たちまち痛みが急速に和らぎ始めた。
なぜ、なぜだ?
動揺を隠せないでいると、腕についた僕の返り血を、美星が愛おしそうに眺めていた。
「ふふ。丹司の身体の中に、私の一部がちゃんと入っていたのね」
「……えっ?」
「あの時、私が丹司のお腹を刺したことで、ちゃあんと抗体が作られていたの。だから、だから……」
耳を疑った。
はっと幼少の頃の記憶を思い出す。
美星を抱きしめる手は華奢な彼女の身体を完全に守り抜いた。奇跡と言ってもいい瞬間だった。男たちが噴射したものを、虹色の光が弾き飛ばしていた。
彼女を胸に抱いていると、遠い記憶が垣間見えてきた。
500年、いや、5000年、いや、もっと昔。1億年ほど前から、女蜂族は存在していたのだ。形を変え、コロニーを変え、餌を変え、環境を変えて、生き永らえてきたのだ。途中から、女蜂神社を巣とした。
それでもなお、女王蜂はただひとり、美星だけだった。
あまりにも壮大で美しい歴史に、とめどなく涙が溢れ出てきた。神聖な光をまとう美星が、静かに目を開ける。目を細めて口元を綻ばせる。
「ずっと、地球という巣の中にいたんだね」
「どうかしら。でも、みんなを救ってくれてありがとう。丹司の抗体のおかげで、働き蜂も、雄蜂も、命を落とすことなく生き続けることができそうよ」
「ヨソモノも、ツワモノだろう?」
そんなつまらない冗談が出た。
美星は小さく笑ってくれた。
「美星は、美星はこれからどうなるの?」
一番の不安ごとだった。
「もう、人間とは同じ世界で暮らせないから。でも、丹司に出会えて本当に良かった。世界のことを知り尽くしていると思い込んでいたけれど、もっと素敵な世界があったなんて」
息絶え絶えになってきた。僕は首を横に振る。
「さよならしたくない。手放したくない。美星ともっと一緒にいたい」
右手に持っていた鰐のお面を目の前に差し出された。
「伝統は生き続けるから」
風前の灯だった。鰐のお面は彼女の胸元に落ちた。
今思うと、途中で僕の目が開かなかったのは、美星が本来の姿を僕に見せたくなかったのではないかとすら思う。
女蜂の世界は、どこまでも幽玄でいて夢幻であった。
頭上に輝く半月は、どこか美星を連想させた。
闇と希望を持ち続けた偉大なる女王蜂。
「丹司が小さい頃、例大祭の日、この町に来てたよね?」
心地良い声音。
すっと息を吐いた。
「どうして、忘れていたんだろう」
「きっと、弟さんの命を奪った毒のせいかも?」
「やっぱりあの時……」
好奇心の塊だった浩司の汗ばんだ手の感触と、最期にうなされた様子が目の裏に甦る。
「丹司も、刺されたよね」
素朴な声で美星は言った。反射的に右手を腹部に持っていった。
「でも、私たち純粋な女蜂は人を刺さないの。私の統率力が足りなかったせいね。いつの時代も反乱分子は現れてしまうけれど、人間に、いえ、丹司に危害を加える前に動くべきだった」
「美星は悪くないよ!」
とっさに声を荒げていた。それだけは、どうしても全否定したかった。
「女蜂については、常識を逸脱しているところがあるから、やっぱりよくわかんないけど。でも」
「その気持ちは嬉しいわ」
最後まで言い終わらないうちに美星は言葉を被せてきた。そして、急に会話は途切れた。談笑する声や、賑やかな祭りの音がまったく聞こえてこない。
どこへ向かっているのか。病院だろうか。電波塔だろうか。
それとも、僕たちが再会を果たした慰霊碑広場か。はたまた、結界を超えた先にある新世界か。その予想を裏切るように、間の抜けた花火の音がした。
「これを言ったら、私は完全に女王失格だろうけど……、それでも、丹司には伝えたいことがあるの」
決意に満ちた一言で、場の空気は一変。
背中から下り、きちんと彼女の魅惑的な銀色の瞳を見ながら大事な告白を聞きたかった。なのに、瞼や手足には痙攣があり思いどおりに動けない。
「私は女蜂族の女王蜂でありながら、人を好きになってしまった。純粋な人間、それも女蜂神社からは遠い場所で生まれ育った男の人を」
美星は「ヨソモノ」という言葉を敢えて使わない。
「鬼月丹司、私はあなたを心から愛してしまったの」
目頭が痺れるように熱くなった。ずっと待っていた言葉。ずっと伝えたかった言葉。
「僕も、美星のことを好きだよ」
「ふふ」
「何がおかしいの?」
「女王蜂には、独特なフェロモンがあるの。丹司は、それにやられてしまったのね」
「なんか、人ごとだなぁ」
美星の身体が揺れた。
「それから、ほたるを責めないで欲しいの」
「えっ?」
「恋をすると女王蜂の生命力は弱まってゆくの。絶滅の危機に何度も陥った女蜂族の統率者なのに、また私は同じことを繰り返そうとしている……。そんな私から生まれたと言っても過言ではない、ほたる、乃瑛琉、エリカのうち、ほたるは群を抜いて周囲の変化を察する能力に長けている。女王蜂の衰弱にいち早く気づき、コロニーを建て直そうとしたの。ただ、それだけのことだから」
必死に仲間を気遣う美星。女蜂族の血を微塵も受け継いでいない僕が、とやかくいうことではなかった。互いに別々の葛藤を抱いているのだ。
僕たちの幼き恋、でも本気の想いによって無意識に無数の命を潰そうとしているのかと思うと胸が締め付けられる思がした。
突然、身体が浮遊した気がした。
飛んでいるのだろうか?彼女は人の心を持ちながら、人ではないのだ。飛べたとしても驚くことではないのかもしれない。高い場所から受ける夜風を肌に感じた。
「一度は僕を遠ざけたのって、その女王蜂としての権威を失ってしまうから?」
ふいに美星の背中からただならぬ緊張感を察した。場違いな質問をしてしまったことを後悔する。
「でも、しょせん私は偽女王。女王蜂の真似事しかできない」
落ち着き払ったその声は巫女の右京ほたる。
「偽女王は、女蜂を生み出すことも支えることでもできない。雄蜂たちを増やすので精一杯。むろん、新しいコロニーを形成できず最終的には滅んでしまう」
皮肉交じりというよりは、己の非運を嘆くような口ぶり。
やがて、蜂の羽音が頭上から聞こえてきた。一匹や、二匹ではない。ものすごい大群だ。下手すればちょっとした軍用機の音に聞こえなくもない。
そして、美星は僕を背中から下ろすと、別の肩に預けた。洋服ではなく緋袴の手触りから察して、それが右京ほたるだとすぐにわかった。それなのに、まだ自分の目は開かない。しかたなく暗闇の中で必死に耳をそばだてる。
「離せ、離せよ!」
突然、およそ十メートル先から相沢の乱暴な声が聞こえてきた。女蜂族の蜂たちに身柄を拘束されているのだろうか。
「鬼月、おまえはまだ生きてたのか! そこの巫女も、名前だけが独り歩きしている女王蜂も、よくまぁ雁首揃えて」
興奮しながら激しく罵ってきた。
「おまえたちは、仲間を裏切ることになるんだぞ? 女王として、女帝として、恥ずかしいと思わないのか? ああ、美星は何度も同じ過ちを繰り返す、ただの色魔だったな。右京ほたる、おまえもしょせんはニセモノだ。ニセモノの女帝め!」
美星らに罵詈雑言を浴びせ続ける相沢。怒りの声だけしか聞こえないが、とても哀れに思えてならなかった。
「相沢くんのお父さんは、助けに来ないのかい?」
後先考えずに僕は思ったことを口にした。相沢は高らかに嘲笑う。
「ものすごい兵器を持って助けに来てくれるさ。金持ちは、自分の身は自分で守る。おまえら有象無象は、とっととこの世の塵芥となって消えてしまえ! ヒャーッハッハッハッ」
言い返したい気持ちは山々だったが、美星やほたるの発言を待つ。
「でも、しょせんは相沢、あなたも乃瑛琉が生み出す薬がなければまともに日常生活は送れない。それなのに、なぜ女蜂族に受け継がれる唯一の規律を守れらなかったの? ビジネスに目が眩んだ? 人間の悪い部分に染まった? 雄蜂としての使命に背き、規律を乱し、美星様を侮辱した罪は死罪にあたるわよ」
右京ほたるの突き放した声色は、横で聞いているだけで戦慄させた。
やがて、蜂の大群だろうか。大きな乗り物のエンジンにも似た、けたたましい音が空間を満たしてゆく。
ふっと、視界が開けてきた。
今立っている場所は、転校初日に裏生徒会メンバーから連れて行かれた屋上。
電波塔の半分から先端にかけて薄気味悪く黒光りしてこちらを見下ろしている。だがすぐに、電波塔よりも目の前の光景に視線が釘付けとなった。とっさに嫌な記憶が思い出される。
蒼白とした顔に虚ろな目をした女子生徒らは、まさにあの学級裁判で集まった生気のない元生徒会メンバーと似た負の雰囲気をまとっているのだ。彼女たちは、二メートルもない丸太を取り囲んでいた。しかも丸太には相沢が手足の自由を奪われて磔(はりつけ)にされているではないか。甘ったるさを匂い立たせ、なお且つ粘着性のあるハチミツのようなもので全身を巻かれている。
さらにその横で蜂の大群は、奇妙に交差したジャングルジムこようなものを身体を張って形成している真っ只中だ。
その蜂球の中にも、相沢の傍にも、ましてや僕とほたるの手の届く場所にも、やはり美星の姿は見当たらず。
そのうち、屋上の気温が急速に上昇していくのを肌で感じた。蜂の羽音もどんどん音量を増してゆく。両手で耳を抑えたくなるほどやかましかったが、僕は最後まで皆の言い分を取りこぼさないように努めた。
「地獄に堕ちろ! おまえら全員、地獄に堕ちろ! 偉大なる僕の父が、直におまえらを滅ぼすだろう!」
もはや彼の声はガラガラにしゃがれていた。その台詞のすぐあとで、相沢の顔面は取り囲んでいた蜂たちによって覆われて瞬く間に見えなくなった。
「熱い! 熱い! ああああああああああああああああああ!」
屋上で、不吉に響く断末魔。
丸太に貼り付けられた相沢は、女蜂族の天敵とみなされ、球を作っていた大群の中に押し込められ、熱と強烈な圧迫を受けて絶命。熱殺蜂球の刑は、あまりに強烈で凄惨なものだった。
やがて、蜂の大群が形成した球は崩れ去った。あとには身を縮ませた丸焦げの黒い相沢の焼死体と、青白い顔の美星だけが残った。
僕は、ほたるの肩を離れ胃の中のものを思わず足元に吐き出してしまった。
「今年の例大祭も、やっぱり死人が出てしまったね」
ほたるの声は、いつになく柔らかい。
「ふたりとも、この場所から離れて。いますぐに!」
ふいに蒼褪めた顔で、美星は僕たちに厳命してきた。なぜ?と尋ねようとした僕の背中を、ほたるは両手で押しながら階段の方へと疾走した。
「ちょっと、待ってよ! 何? 何が起こるの?」
突如、頭上から轟音が近づいてきた。
AIZAWAと書かれた大きな迷彩柄のヘリコプターが二台。ものすごい風圧を受け、足を持っていかれそうになった。
ヘリコプターのドアが開き、数人がベランダに着地。武装したふたりのうち、ひとりの男は手際よく相沢の遺体をヘリコプターの中で待機する者へ引き渡した。もう片方の男は、その場に膝から崩れた。相沢の父なのかと、直感が働いた。
しかし、そっちに動向に目を奪われていたのは致命的なミスだった。美星に向かって武装した男がひとり、見るからに物騒なホースから何かを大量に噴射させようとしていたのだ。
とっさにほたるの手を振り払い、僕は美星のもとへと駆けつけた。周りの景色がすべてスローモーションのように流れた。強力な殺虫剤を背中に受け、激しい痛みが走った。
純粋に美星を救いたい、何としてでも救いたい。歯を食いしばり、その激痛を押し出す気持ちで強く願った。
すると、たちまち痛みが急速に和らぎ始めた。
なぜ、なぜだ?
動揺を隠せないでいると、腕についた僕の返り血を、美星が愛おしそうに眺めていた。
「ふふ。丹司の身体の中に、私の一部がちゃんと入っていたのね」
「……えっ?」
「あの時、私が丹司のお腹を刺したことで、ちゃあんと抗体が作られていたの。だから、だから……」
耳を疑った。
はっと幼少の頃の記憶を思い出す。
美星を抱きしめる手は華奢な彼女の身体を完全に守り抜いた。奇跡と言ってもいい瞬間だった。男たちが噴射したものを、虹色の光が弾き飛ばしていた。
彼女を胸に抱いていると、遠い記憶が垣間見えてきた。
500年、いや、5000年、いや、もっと昔。1億年ほど前から、女蜂族は存在していたのだ。形を変え、コロニーを変え、餌を変え、環境を変えて、生き永らえてきたのだ。途中から、女蜂神社を巣とした。
それでもなお、女王蜂はただひとり、美星だけだった。
あまりにも壮大で美しい歴史に、とめどなく涙が溢れ出てきた。神聖な光をまとう美星が、静かに目を開ける。目を細めて口元を綻ばせる。
「ずっと、地球という巣の中にいたんだね」
「どうかしら。でも、みんなを救ってくれてありがとう。丹司の抗体のおかげで、働き蜂も、雄蜂も、命を落とすことなく生き続けることができそうよ」
「ヨソモノも、ツワモノだろう?」
そんなつまらない冗談が出た。
美星は小さく笑ってくれた。
「美星は、美星はこれからどうなるの?」
一番の不安ごとだった。
「もう、人間とは同じ世界で暮らせないから。でも、丹司に出会えて本当に良かった。世界のことを知り尽くしていると思い込んでいたけれど、もっと素敵な世界があったなんて」
息絶え絶えになってきた。僕は首を横に振る。
「さよならしたくない。手放したくない。美星ともっと一緒にいたい」
右手に持っていた鰐のお面を目の前に差し出された。
「伝統は生き続けるから」
風前の灯だった。鰐のお面は彼女の胸元に落ちた。
今思うと、途中で僕の目が開かなかったのは、美星が本来の姿を僕に見せたくなかったのではないかとすら思う。
女蜂の世界は、どこまでも幽玄でいて夢幻であった。
頭上に輝く半月は、どこか美星を連想させた。
闇と希望を持ち続けた偉大なる女王蜂。