5、包帯の奥で工藤乃瑛琉の胸は
文字数 2,627文字
我ながら、これほど方向音痴だとは思わなかった。やれやれと、頭を掻きながら一階の職員室正面にある学校内のフロアガイドを見上げる。
いや待て、異様だ。
この学校は、教室の名前がもともとややこしい。同じ名前の部屋がふたつずつあるではないか。厳密に言うと、ちょっと違うのだが。
保健室と特別保健室。理科室と北理科室。音楽室と北音楽室。混同しないほうがおかしい。
特別保健室・北理科室・北音楽室は『北棟』にある。生徒会があれば裏生徒会があることと関係しているのだろうか。何にせよ、他にも普通の学校とは違うルールがありそうだ。
それについては、いずれ兵頭から詳細を聞くとして、ひとまず移動教室で忘れたペンケースを取りに北理科室、理科室の順でまわることにした。
身体の青が美しい熱帯魚のネオンテトラや、顕微鏡、何かの生物のホルマリン漬けが並ぶ壁を横切って北理科室に後ろから入った。昼休みなので特にノックもせず、電気も点けず、真っ先に後ろから二番目の席へと向かった。
すると、意表をついて女子生徒の「ふあがああ!」と言う叫び声がした。
驚いた衝撃で机の角に股間を打ってしまった。
言葉にならないほどの激痛が局部から全身へと走ったが、女子生徒の声でかき消された。
「急に入ってごめん。ほんとごめん! まさか、人がいるなんて思わなくて」
相手に見えないよう股間の痛みを右手でかばいながらひたすら謝る。
「ふがあ。ふわあ。ああ。うまくできないいい」
女子生徒が何をしているのかわからなかったので、できるだけ窓際を見ないように努めたが、その独特な話し方には惹きつけられた。
「昼休みも、生徒が入ってくることあるから、もっと警戒したほうが良いよ。じゃあね」
忘れ物を握りしめながら、そんな助言を吐いてみる。ところが、僕は僕で股間の痛みに動揺していたのだろう。このタイミングで北理科室の電気を点けてしまった。
「うがああ! なんでぇえええ」
また背後から呻き声がした。
「ご、ごめん」
慌てて電気を消す。
「ち、ちがう。こっちのことおおおお。ああああ。お願い。これ、巻くの手伝ってぇ! ふわああ」
一瞬、耳を疑った。
彼女は僕を追い払うのではなく、むしろ呼び止めたのだから。
「そっちに行って良いって、、、こと?」
「ううんんん」
YESともNOとも取れる返事だったが、困っている様子なのは確かなので、電気をもう一度点けた。北理科室の扉も改めて閉める。
おそるおそる、窓際の席の前から二番目に座っていた彼女に近づいた。
大胆に腰までのびたツインテールだった。やや銀髪に近い黒髪。右の瞳は黒いが、左眼は色素が薄く淡いグレーの瞳をしていた。カラーコンタクトでもしているのだろうか。それでも、不思議と奇抜な印象は無かった。彼女の独特の雰囲気には、むしろピタリとはまっているようにすら感じる。
机には、黒縁のメガネと薬が無造作に置かれていた。
ふいに、彼女は座ったままこちらに上半身を傾けてきた。今度は、別のショックで叫びそうになった。首元の赤いネクタイだけでなく、白い半袖ブラウスは第三ボタンまで外していたのだ。
思わず、視線を窓外へと逸らした。僕の気も知らずに、曇り空の下で男子生徒たちはのんきにボールを追いかけていた。
突然、僕の右手首を彼女が強く掴んできた。
「巻いて欲しいのよ。お願いいいい。うああああ。気分が悪いからぁぁぁ」
今にも泣きそうな声。
「大丈夫? 保健室まで連れて行こうか?」
「違うの。ふああああ。包帯を巻き直して欲しいのよぉぉ」
「わかった、わかったよ」
男に任せて本当に良いのかと自問自答せずにはいられなかったが、彼女はためらいもせずに両肩を半分くらい露出するようにしてブラウスを下ろした。
最初から巻き直して欲しいと言うわけではなさそうだったが、包帯に触れる自分の手が震えていた。情けない。おまけに、心拍数のほうも尋常ではないほど逸っていた。
同級生より明らかに大きな胸の膨らみが目の前にあるのだ。男子中学生が、冷静でいられるはずがない。
いや、自分は試されているのかもしれない。近くに兵藤の一味が隠れているのかもしれない。できるかぎり相手に下心を悟られまいと平常心を装いながら、僕は必死に胸部に巻き付けられていた包帯を半分ほど解き、彼女の細かい指示に従ってひたすら巻いてあげた。
右手で脇のあたりを指したり、腰のあたりを指したり。あてがう部分がとても重要のようだった。
ちょっとでもずれると、彼女は「ふああ」と声を漏らした。骨ばった身体を前から後ろから、こんなにも近くから眺めてしまって良いものかと疑問に思っていると、包帯の隙間から傷のようなものがちらりと見えた。
火傷の痕だろうか。
集中力を欠くと、包帯はズレてしまう。そのたびに彼女は、尻尾を踏みつけられた猫のような声を漏らす。
「不器用で悪い」
最後の結びまで巻き終えると、タイミングを見計らかったかのようにチャイムが鳴った。
「あまり優れないようなら、早退したほうが良いよ」
僕の言葉は彼女にさほど響いていないらしく、ブラウスのボタンを留めてからもなお、その上から包帯を摩っていた。
昼休憩の終わりを知らせるチャイムがもう一度鳴った。
気持ちが急かされて、踵を返そうとしたその時。
「……のえる」
「うん?」
振り返ると、少女の瞳はまっすぐこちらを見据えていた。
「……工藤、乃瑛琉」
「工藤、、、ああ、名前か。僕は鬼月丹司。すっかり、その、お邪魔したね」
自己紹介もそこそこに、慌てて北理科室を出た。
それでも、少し廊下を歩き進んでからやっぱり彼女が気になって肩越しに北理科室を見たが、扉が開く気配はなかった。
包帯を巻き直してからは痛みが緩和されたような印象だったが、何より怪我の原因が気がかりだ。一方で、女子の胸に包帯を巻くという前代未聞の、中二男子にはギリギリの行為をしてしまった事実を振り返って赤面してしまった。
しかも、北理科室で出会った彼女は、なんと兵頭が口にした女帝のひとりだと後々わかった。しかし、なぜ電気も点けず暗い場所にひとりでいたのだろうか。
三人目の女帝の存在は、間違いなく僕にエロティックな余韻と鮮烈的な謎を残した。
いや待て、異様だ。
この学校は、教室の名前がもともとややこしい。同じ名前の部屋がふたつずつあるではないか。厳密に言うと、ちょっと違うのだが。
保健室と特別保健室。理科室と北理科室。音楽室と北音楽室。混同しないほうがおかしい。
特別保健室・北理科室・北音楽室は『北棟』にある。生徒会があれば裏生徒会があることと関係しているのだろうか。何にせよ、他にも普通の学校とは違うルールがありそうだ。
それについては、いずれ兵頭から詳細を聞くとして、ひとまず移動教室で忘れたペンケースを取りに北理科室、理科室の順でまわることにした。
身体の青が美しい熱帯魚のネオンテトラや、顕微鏡、何かの生物のホルマリン漬けが並ぶ壁を横切って北理科室に後ろから入った。昼休みなので特にノックもせず、電気も点けず、真っ先に後ろから二番目の席へと向かった。
すると、意表をついて女子生徒の「ふあがああ!」と言う叫び声がした。
驚いた衝撃で机の角に股間を打ってしまった。
言葉にならないほどの激痛が局部から全身へと走ったが、女子生徒の声でかき消された。
「急に入ってごめん。ほんとごめん! まさか、人がいるなんて思わなくて」
相手に見えないよう股間の痛みを右手でかばいながらひたすら謝る。
「ふがあ。ふわあ。ああ。うまくできないいい」
女子生徒が何をしているのかわからなかったので、できるだけ窓際を見ないように努めたが、その独特な話し方には惹きつけられた。
「昼休みも、生徒が入ってくることあるから、もっと警戒したほうが良いよ。じゃあね」
忘れ物を握りしめながら、そんな助言を吐いてみる。ところが、僕は僕で股間の痛みに動揺していたのだろう。このタイミングで北理科室の電気を点けてしまった。
「うがああ! なんでぇえええ」
また背後から呻き声がした。
「ご、ごめん」
慌てて電気を消す。
「ち、ちがう。こっちのことおおおお。ああああ。お願い。これ、巻くの手伝ってぇ! ふわああ」
一瞬、耳を疑った。
彼女は僕を追い払うのではなく、むしろ呼び止めたのだから。
「そっちに行って良いって、、、こと?」
「ううんんん」
YESともNOとも取れる返事だったが、困っている様子なのは確かなので、電気をもう一度点けた。北理科室の扉も改めて閉める。
おそるおそる、窓際の席の前から二番目に座っていた彼女に近づいた。
大胆に腰までのびたツインテールだった。やや銀髪に近い黒髪。右の瞳は黒いが、左眼は色素が薄く淡いグレーの瞳をしていた。カラーコンタクトでもしているのだろうか。それでも、不思議と奇抜な印象は無かった。彼女の独特の雰囲気には、むしろピタリとはまっているようにすら感じる。
机には、黒縁のメガネと薬が無造作に置かれていた。
ふいに、彼女は座ったままこちらに上半身を傾けてきた。今度は、別のショックで叫びそうになった。首元の赤いネクタイだけでなく、白い半袖ブラウスは第三ボタンまで外していたのだ。
思わず、視線を窓外へと逸らした。僕の気も知らずに、曇り空の下で男子生徒たちはのんきにボールを追いかけていた。
突然、僕の右手首を彼女が強く掴んできた。
「巻いて欲しいのよ。お願いいいい。うああああ。気分が悪いからぁぁぁ」
今にも泣きそうな声。
「大丈夫? 保健室まで連れて行こうか?」
「違うの。ふああああ。包帯を巻き直して欲しいのよぉぉ」
「わかった、わかったよ」
男に任せて本当に良いのかと自問自答せずにはいられなかったが、彼女はためらいもせずに両肩を半分くらい露出するようにしてブラウスを下ろした。
最初から巻き直して欲しいと言うわけではなさそうだったが、包帯に触れる自分の手が震えていた。情けない。おまけに、心拍数のほうも尋常ではないほど逸っていた。
同級生より明らかに大きな胸の膨らみが目の前にあるのだ。男子中学生が、冷静でいられるはずがない。
いや、自分は試されているのかもしれない。近くに兵藤の一味が隠れているのかもしれない。できるかぎり相手に下心を悟られまいと平常心を装いながら、僕は必死に胸部に巻き付けられていた包帯を半分ほど解き、彼女の細かい指示に従ってひたすら巻いてあげた。
右手で脇のあたりを指したり、腰のあたりを指したり。あてがう部分がとても重要のようだった。
ちょっとでもずれると、彼女は「ふああ」と声を漏らした。骨ばった身体を前から後ろから、こんなにも近くから眺めてしまって良いものかと疑問に思っていると、包帯の隙間から傷のようなものがちらりと見えた。
火傷の痕だろうか。
集中力を欠くと、包帯はズレてしまう。そのたびに彼女は、尻尾を踏みつけられた猫のような声を漏らす。
「不器用で悪い」
最後の結びまで巻き終えると、タイミングを見計らかったかのようにチャイムが鳴った。
「あまり優れないようなら、早退したほうが良いよ」
僕の言葉は彼女にさほど響いていないらしく、ブラウスのボタンを留めてからもなお、その上から包帯を摩っていた。
昼休憩の終わりを知らせるチャイムがもう一度鳴った。
気持ちが急かされて、踵を返そうとしたその時。
「……のえる」
「うん?」
振り返ると、少女の瞳はまっすぐこちらを見据えていた。
「……工藤、乃瑛琉」
「工藤、、、ああ、名前か。僕は鬼月丹司。すっかり、その、お邪魔したね」
自己紹介もそこそこに、慌てて北理科室を出た。
それでも、少し廊下を歩き進んでからやっぱり彼女が気になって肩越しに北理科室を見たが、扉が開く気配はなかった。
包帯を巻き直してからは痛みが緩和されたような印象だったが、何より怪我の原因が気がかりだ。一方で、女子の胸に包帯を巻くという前代未聞の、中二男子にはギリギリの行為をしてしまった事実を振り返って赤面してしまった。
しかも、北理科室で出会った彼女は、なんと兵頭が口にした女帝のひとりだと後々わかった。しかし、なぜ電気も点けず暗い場所にひとりでいたのだろうか。
三人目の女帝の存在は、間違いなく僕にエロティックな余韻と鮮烈的な謎を残した。