8、不信感と信頼感
文字数 1,791文字
ノックされたドアに視線をやった。
「起きてるか?」
父が早朝に声をかけて来ることはまずない。
いかに日常が変容しつつあるかがわかる。
「起きてるよ」
ドアの外からブリーフケースを手にした父が顔を見せた。
「学校で、教師からとんでもない仕打ちを受けたそうだな」
心の準備もままならないうちに、単刀直入に言われて僕は顔をしかめた。
「誰から聞いたの?」
「母さんからだ。…大変だったな」
ほんのわずか親の態度を示してはくれたが、すぐに僕から目を逸らし、部屋の壁時計を一瞥した。
「学校を訴えることもできるが、いまは私にしかできない大きな仕事を任されている。それが片付いてからでも良いか?」
「わかった」
不意に、病院で見た巨大な水槽が頭に浮かぶ。
立入禁止ゾーンであったことには違いない。
それについて激怒されることを覚悟の上で訊いてみようと思い、立ち去ろうとする父を呼び止める。
「ねえ!」
「なんだ」
「大きなプロジェクトって、やっぱり『ソウルメイト』に依頼されたの?」
「そうだ」
父はあっさりと認めた。
「巨大な水槽とか関係ある?」
一瞬、父の目に殺気が走った。
しかし、すぐに「家族であっても口外無用だ。行くぞ」と早口で言って階段を下りて行った。
勢いよく玄関のドアが閉められ、車のエンジン音が聞こえる。
僕は危険な賭けに出てしまった。
これも、父が嘘を突いたのがいけない。
---学校で、教師からとんでもない仕打ちを受けたそうだな
確かにそう明言した。
だが、母は兵頭からそのように伝言されていなかった。そもそも、学級裁判での屈辱についてまだ誰にも話していない。
なぜ父は知っていたのだろうか。
得体の知れない不安だけが募ってゆく。
それでもなお、食欲は失っていないようだ。
お腹から間の抜けた音がした。
とても料理をする気分にはなれなかったが、冷凍食品もカップ麺もなし。しぶしぶ包丁を握る。
それにしても、母は冷蔵庫の中身を確認せずに出て行ったのか。新鮮なブロッコリーやトマトに夏野菜、魚の切り身まで揃っているではないか。
冷蔵庫を開けながら悩んで数分。一度だけネットでレシピを拾ったことのあるアクアパッァを作ることにした。
野菜を洗ったり、にんにくを薄切りにしていると、エリカから着信があった。スピーカーにしながら料理を続ける。
「昨日は、本当にありがとうな。あたしのPCの恩人よ」
受話器の向こうで照れくさそうに話すエリカを想像すると、口元が綻んだ。
「僕もキミには命を救われたから、気にしないで。それより、ノートPCにどれほどの大事なデータが入ってわけ?」
逆に質問されるとなかなか答えにくいなと思いながらも、訊かずにはいられなかった。
「ああ、実は、電波塔のことについて調べてるんだ」
まな板に押し付けた野菜をそのままに、携帯を持ち替えた。
「え、キミも? 動機は? 実を言うと、僕も観察してるんだ」
「おまえもか!」
エリカも興奮気味に言った。
「実はだな、あの役割を正確に答えられる者はいないんだ。興味あるだろう? ただ、乙女たちの情緒不安定を取り除く役割はあると言われている。特別保健室で、それについて教師から滔々と語られる。だが、このあたしは、きちんと数値とかデータで示してもらわんと納得がいかない」
「さすが、理系! 初めて気が合ったな」
「最初で最後だろうな」
携帯越しで同時に噴き出した。
「じゃあさ、キミが暇なときに連絡してよ。一緒に電波塔を観察しに行こう」
「ああ。また連絡する」
意気投合する感覚を、僕はしばらく忘れていたのかもしれない。
エリカの電話で気持ちが高揚した。
フライパンにオリーブオイルを敷き、スライスしたにんにくをいれて弱火にした。
香りが沸き立った頃、洗った具材を入れてしばらく蒸し焼きにした。
皿を用意して盛り付けていると、相手から切ったと思い込んでいた携帯から声がした。
「失った兄弟の代わりは無理かもしれないが、これからも気軽に話しかけろ」
その優しさはあまりに不意打ちだった。
「ああ」としか答えられなかったのが、エリカにはきちんと通じたと思う。
「起きてるか?」
父が早朝に声をかけて来ることはまずない。
いかに日常が変容しつつあるかがわかる。
「起きてるよ」
ドアの外からブリーフケースを手にした父が顔を見せた。
「学校で、教師からとんでもない仕打ちを受けたそうだな」
心の準備もままならないうちに、単刀直入に言われて僕は顔をしかめた。
「誰から聞いたの?」
「母さんからだ。…大変だったな」
ほんのわずか親の態度を示してはくれたが、すぐに僕から目を逸らし、部屋の壁時計を一瞥した。
「学校を訴えることもできるが、いまは私にしかできない大きな仕事を任されている。それが片付いてからでも良いか?」
「わかった」
不意に、病院で見た巨大な水槽が頭に浮かぶ。
立入禁止ゾーンであったことには違いない。
それについて激怒されることを覚悟の上で訊いてみようと思い、立ち去ろうとする父を呼び止める。
「ねえ!」
「なんだ」
「大きなプロジェクトって、やっぱり『ソウルメイト』に依頼されたの?」
「そうだ」
父はあっさりと認めた。
「巨大な水槽とか関係ある?」
一瞬、父の目に殺気が走った。
しかし、すぐに「家族であっても口外無用だ。行くぞ」と早口で言って階段を下りて行った。
勢いよく玄関のドアが閉められ、車のエンジン音が聞こえる。
僕は危険な賭けに出てしまった。
これも、父が嘘を突いたのがいけない。
---学校で、教師からとんでもない仕打ちを受けたそうだな
確かにそう明言した。
だが、母は兵頭からそのように伝言されていなかった。そもそも、学級裁判での屈辱についてまだ誰にも話していない。
なぜ父は知っていたのだろうか。
得体の知れない不安だけが募ってゆく。
それでもなお、食欲は失っていないようだ。
お腹から間の抜けた音がした。
とても料理をする気分にはなれなかったが、冷凍食品もカップ麺もなし。しぶしぶ包丁を握る。
それにしても、母は冷蔵庫の中身を確認せずに出て行ったのか。新鮮なブロッコリーやトマトに夏野菜、魚の切り身まで揃っているではないか。
冷蔵庫を開けながら悩んで数分。一度だけネットでレシピを拾ったことのあるアクアパッァを作ることにした。
野菜を洗ったり、にんにくを薄切りにしていると、エリカから着信があった。スピーカーにしながら料理を続ける。
「昨日は、本当にありがとうな。あたしのPCの恩人よ」
受話器の向こうで照れくさそうに話すエリカを想像すると、口元が綻んだ。
「僕もキミには命を救われたから、気にしないで。それより、ノートPCにどれほどの大事なデータが入ってわけ?」
逆に質問されるとなかなか答えにくいなと思いながらも、訊かずにはいられなかった。
「ああ、実は、電波塔のことについて調べてるんだ」
まな板に押し付けた野菜をそのままに、携帯を持ち替えた。
「え、キミも? 動機は? 実を言うと、僕も観察してるんだ」
「おまえもか!」
エリカも興奮気味に言った。
「実はだな、あの役割を正確に答えられる者はいないんだ。興味あるだろう? ただ、乙女たちの情緒不安定を取り除く役割はあると言われている。特別保健室で、それについて教師から滔々と語られる。だが、このあたしは、きちんと数値とかデータで示してもらわんと納得がいかない」
「さすが、理系! 初めて気が合ったな」
「最初で最後だろうな」
携帯越しで同時に噴き出した。
「じゃあさ、キミが暇なときに連絡してよ。一緒に電波塔を観察しに行こう」
「ああ。また連絡する」
意気投合する感覚を、僕はしばらく忘れていたのかもしれない。
エリカの電話で気持ちが高揚した。
フライパンにオリーブオイルを敷き、スライスしたにんにくをいれて弱火にした。
香りが沸き立った頃、洗った具材を入れてしばらく蒸し焼きにした。
皿を用意して盛り付けていると、相手から切ったと思い込んでいた携帯から声がした。
「失った兄弟の代わりは無理かもしれないが、これからも気軽に話しかけろ」
その優しさはあまりに不意打ちだった。
「ああ」としか答えられなかったのが、エリカにはきちんと通じたと思う。