19、『1007』『88:88』
文字数 2,705文字
一心不乱に、休憩なしで二時間も泳いだ。
無心で体を動かすのはストレス解消に抜群だ。普通に体は疲れたものの、心は落ち着いてきた。
水中から出て片足をケンケンさせながら耳に入った水を外に出していると、見知った顔が横切った。
ネイビーのスクール水着に白のキャップを被っていたのは、すらっと手足の長い右京ほたるだった。
彼女は、無心で泳いでいた。
泳ぎ方もその人の性格が出るのかもしれない。授業のない日は、プールにレーンがない。それでも、彼女は乱すことなく真っすぐクロールで進んでいた。
透明感のある肌が水を弾く姿は美しかった。大人びた横顔は水泳中も変わらない。彼女が、冷静さを欠いたり脇目も振らずに号泣したりする姿は微塵も浮かばない。だからこそ、右京ほたるの巫女姿は容易に想像できた。
結局、彼女が泳ぐのをやめるまで僕もプールに残った。 話しかけるタイミングは、彼女が顔を洗っている時しかなかった。
「右京さんも、泳ぎに来てたんだね」
驚いた様子はなく、蛇口を止めてからこちらをおもむろに振り返った。
「特別登校の日だったから、ついでに来ただけよ」
ふと、水着の締めつけに反発するかのようなふたつの胸の膨らみが目にとまった。制服の上からでは分からなかったが、意外と大きい。その直接的に視覚を刺激されていやらしいきもちになったことを相手に悟られないよう、とっさに僕は目を逸らした。
「特別登校って?」
「男子は知らなくて良いのよ」
そう言ってほたるは素っ気なく女子更衣室へと入っていった。自分も素早く男子更衣室で私服に着替えた。ほとんど同時に更衣室を出たが、彼女は僕に目もくれない。こんなに早く着替えられる女子がいることに驚く。
耳のあたりに触れる髪の毛だけで三つ編みに結っていた。まだ完全に乾ききっていないその艶髪がまた色っぽく見えた。私服は、肩にスリットのある青のカットソーに黒いレギンス。携帯を見たりよそ見することなく、真っすぐ歩いていく。
昼飯にでも誘ってみようかと考えながら後を追う。
ふと、彼女のリュックのポケットから何かが地面に転がって落ちた。
途中で気づきそうもないことを確認してから拾ってみると、白いカプセルの薬が二錠。配合1007と小さく書かれていた。
彼女にわたそうとして顔を上げたが、ほたるの歩く速度に驚愕。すでに校門を出てしまっていた。
僕は走って追いかけた。
しかし、他のことにまたもや意識を取られてしまう。学校へ行く前には目視できたはずの電波塔がすでに閉ざされた鉄扉の中だった。
「ダメよ、ここへ入っちゃ。女の子を守る大事なものが眠っているんですから」
公園から手を繋ぎあった母子の会話が流れてきた。
女の子を守る大事なもの?
特別登校と関係のあることなのだろうか?
僕は顎に手を添えて考えるポーズをとった。
そうこうしているうちに、前方を行くほたるとの距離がどんどん広がっていく。慌てて追いかけると、裏生徒会メンバーと行ったたこ焼き屋で右折し細道に入った。僕の家に続く道と酷似して上り坂になっていた。途中、数台の自動車とすれ違ったが、そのたびに立ち止まらないといけないほど道幅は狭かった。
顔面に打ちつける風が強くなっているのを感じた。
予報通り台風が接近しているのだろう。向かい風に押されながら、ほたるが背負うリュックを見失わないようしっかり尾行した。
内心、これでは完全にストーカーじゃないかと思ったが、誰かにこんな自分の不審な姿を見られていないことを祈るだけだった。
やがて、十字路が見えてきたが、ここで彼女は奇妙な行動に出る。
斜めに横断したと思ったら、今度は渡る前の道路と真向いの道路へ渡り、そうかと思えば今度は斜め前の歩道へ渡り、結局、最初に上り坂から歩いてきた最初の歩道に戻ってきたのだ。
8の字でも描くのか!と突っ込みたくなった。
しかも、十字路の最初の立ち位置の目の前が、彼女の自宅らしかった。レンガ造りの一軒家に入ろうとしたので、僕は慌てて彼女の名前を呼んだ。
珍しくぎょっとした目でこちらを見た。
「ど、どうしたの、こんなところまで……」
「これ、落としたから」
それまでポケットにしまっていたはずの白い薬がなくなっていた。
「あれ、どこいったかな……」
目の前でまごつていると、「忙しいから入って良い?」と、ピシャリと言われてしまった。
深いため息が漏れる。
「これじゃ、本当、キモいストーカーだ」
言葉に出すとよけいそれが事実に思えて切ない。しかたなく家に帰ることにした。
たこ焼き屋まで引き返さなくても僕の家の方角へ向かう近道があるようだった。彼女の家を背にして、まっすぐ進んだ。こんな道、来た時にはあることすら気付かなかった。
電柱に貼られた店の広告や、自動販売機の隣のごみ箱が強風に煽られてはがれていたり派手にひっくり返っていた。明らかに学校を出た時と比べて風力は増していた。
不意に携帯を取り出す。
兵頭からメールが届いていた。
『裏生徒会メンバー各位 来たる例大祭に向けての手伝いを8月1日に行う。必ず出席するよう。お菓子は1人500円まで。』
知らぬ間に自分は裏生徒会のメンバーの一員にされていた。例大祭の準備となれば、黄賀エリカも来るのだろうか。要らぬ下心が脳裏をよぎった。
そろそろ、自宅へと向かって続く坂が見えてくるはずだったが、なかなか左折できる場所に行き当たらず。ひとまず携帯を閉じてナビを開いた。方向音痴なのだからもっと早くナビを使うべきだったと今さらながら後悔。
その時、携帯の待ち受け画面を見て思わずぎょっとしてしまった。
時刻表記が『88:88』になっているのだ。なぜ狂ってしまったのかわからない。足を止めて、携帯を再起動させた。
水泳の後とあって、真夏にも関わらず身体が急速に冷えていくのを痛感する。なかなか起動しない携帯にやや苛立ちながらも、シャッターが下りているタバコ屋の屋根下に飛び込んだ。
Tシャツの裾で携帯の画面を拭きながら待っていると、ようやく液晶が明るくなった。しかし、時刻は『88:88』のままだった。
他にアプリを起動させてみたが、特に問題はなかった。兵頭から届いたメールの時刻も7月26日の12:30とまっとうな日時を指している。
帰宅したら同じ不具合を起こしている人がいないか、ネットで検索するか、携帯を分解してみようと思った。
ふいに顔を上げると、景色は一変していた。
無心で体を動かすのはストレス解消に抜群だ。普通に体は疲れたものの、心は落ち着いてきた。
水中から出て片足をケンケンさせながら耳に入った水を外に出していると、見知った顔が横切った。
ネイビーのスクール水着に白のキャップを被っていたのは、すらっと手足の長い右京ほたるだった。
彼女は、無心で泳いでいた。
泳ぎ方もその人の性格が出るのかもしれない。授業のない日は、プールにレーンがない。それでも、彼女は乱すことなく真っすぐクロールで進んでいた。
透明感のある肌が水を弾く姿は美しかった。大人びた横顔は水泳中も変わらない。彼女が、冷静さを欠いたり脇目も振らずに号泣したりする姿は微塵も浮かばない。だからこそ、右京ほたるの巫女姿は容易に想像できた。
結局、彼女が泳ぐのをやめるまで僕もプールに残った。 話しかけるタイミングは、彼女が顔を洗っている時しかなかった。
「右京さんも、泳ぎに来てたんだね」
驚いた様子はなく、蛇口を止めてからこちらをおもむろに振り返った。
「特別登校の日だったから、ついでに来ただけよ」
ふと、水着の締めつけに反発するかのようなふたつの胸の膨らみが目にとまった。制服の上からでは分からなかったが、意外と大きい。その直接的に視覚を刺激されていやらしいきもちになったことを相手に悟られないよう、とっさに僕は目を逸らした。
「特別登校って?」
「男子は知らなくて良いのよ」
そう言ってほたるは素っ気なく女子更衣室へと入っていった。自分も素早く男子更衣室で私服に着替えた。ほとんど同時に更衣室を出たが、彼女は僕に目もくれない。こんなに早く着替えられる女子がいることに驚く。
耳のあたりに触れる髪の毛だけで三つ編みに結っていた。まだ完全に乾ききっていないその艶髪がまた色っぽく見えた。私服は、肩にスリットのある青のカットソーに黒いレギンス。携帯を見たりよそ見することなく、真っすぐ歩いていく。
昼飯にでも誘ってみようかと考えながら後を追う。
ふと、彼女のリュックのポケットから何かが地面に転がって落ちた。
途中で気づきそうもないことを確認してから拾ってみると、白いカプセルの薬が二錠。配合1007と小さく書かれていた。
彼女にわたそうとして顔を上げたが、ほたるの歩く速度に驚愕。すでに校門を出てしまっていた。
僕は走って追いかけた。
しかし、他のことにまたもや意識を取られてしまう。学校へ行く前には目視できたはずの電波塔がすでに閉ざされた鉄扉の中だった。
「ダメよ、ここへ入っちゃ。女の子を守る大事なものが眠っているんですから」
公園から手を繋ぎあった母子の会話が流れてきた。
女の子を守る大事なもの?
特別登校と関係のあることなのだろうか?
僕は顎に手を添えて考えるポーズをとった。
そうこうしているうちに、前方を行くほたるとの距離がどんどん広がっていく。慌てて追いかけると、裏生徒会メンバーと行ったたこ焼き屋で右折し細道に入った。僕の家に続く道と酷似して上り坂になっていた。途中、数台の自動車とすれ違ったが、そのたびに立ち止まらないといけないほど道幅は狭かった。
顔面に打ちつける風が強くなっているのを感じた。
予報通り台風が接近しているのだろう。向かい風に押されながら、ほたるが背負うリュックを見失わないようしっかり尾行した。
内心、これでは完全にストーカーじゃないかと思ったが、誰かにこんな自分の不審な姿を見られていないことを祈るだけだった。
やがて、十字路が見えてきたが、ここで彼女は奇妙な行動に出る。
斜めに横断したと思ったら、今度は渡る前の道路と真向いの道路へ渡り、そうかと思えば今度は斜め前の歩道へ渡り、結局、最初に上り坂から歩いてきた最初の歩道に戻ってきたのだ。
8の字でも描くのか!と突っ込みたくなった。
しかも、十字路の最初の立ち位置の目の前が、彼女の自宅らしかった。レンガ造りの一軒家に入ろうとしたので、僕は慌てて彼女の名前を呼んだ。
珍しくぎょっとした目でこちらを見た。
「ど、どうしたの、こんなところまで……」
「これ、落としたから」
それまでポケットにしまっていたはずの白い薬がなくなっていた。
「あれ、どこいったかな……」
目の前でまごつていると、「忙しいから入って良い?」と、ピシャリと言われてしまった。
深いため息が漏れる。
「これじゃ、本当、キモいストーカーだ」
言葉に出すとよけいそれが事実に思えて切ない。しかたなく家に帰ることにした。
たこ焼き屋まで引き返さなくても僕の家の方角へ向かう近道があるようだった。彼女の家を背にして、まっすぐ進んだ。こんな道、来た時にはあることすら気付かなかった。
電柱に貼られた店の広告や、自動販売機の隣のごみ箱が強風に煽られてはがれていたり派手にひっくり返っていた。明らかに学校を出た時と比べて風力は増していた。
不意に携帯を取り出す。
兵頭からメールが届いていた。
『裏生徒会メンバー各位 来たる例大祭に向けての手伝いを8月1日に行う。必ず出席するよう。お菓子は1人500円まで。』
知らぬ間に自分は裏生徒会のメンバーの一員にされていた。例大祭の準備となれば、黄賀エリカも来るのだろうか。要らぬ下心が脳裏をよぎった。
そろそろ、自宅へと向かって続く坂が見えてくるはずだったが、なかなか左折できる場所に行き当たらず。ひとまず携帯を閉じてナビを開いた。方向音痴なのだからもっと早くナビを使うべきだったと今さらながら後悔。
その時、携帯の待ち受け画面を見て思わずぎょっとしてしまった。
時刻表記が『88:88』になっているのだ。なぜ狂ってしまったのかわからない。足を止めて、携帯を再起動させた。
水泳の後とあって、真夏にも関わらず身体が急速に冷えていくのを痛感する。なかなか起動しない携帯にやや苛立ちながらも、シャッターが下りているタバコ屋の屋根下に飛び込んだ。
Tシャツの裾で携帯の画面を拭きながら待っていると、ようやく液晶が明るくなった。しかし、時刻は『88:88』のままだった。
他にアプリを起動させてみたが、特に問題はなかった。兵頭から届いたメールの時刻も7月26日の12:30とまっとうな日時を指している。
帰宅したら同じ不具合を起こしている人がいないか、ネットで検索するか、携帯を分解してみようと思った。
ふいに顔を上げると、景色は一変していた。