29、ノエルの毒親
文字数 4,628文字
朝食の席に、父の姿はなかった。
昨夜の三人のやりとりを母が知っているのか、はたまたあの場にいなかったのかはわからない。ただひとつ確かなのは、母が僕を見てくれていないことだった。
母の視線の先は、テレビのコメンテーターに向けられたまま。僕もついつられて、目玉焼きの半熟部分を箸で割りながら見てしまう。誰もが思いつきそうな薄っぺらな意見を偉そうに述べている人たちは、とても滑稽だった。
七、八分ほどで食事を終えてしまった。
「ごちそーさん。行ってきます」
「お気をつけて」
母は僕の顔は見ずに、お椀を持って行った。僕は亀裂の入った黒い携帯を握りしめる。昨夜のうちにあれこれ詰めておいたボディバッグを背負い、外に出た。乾いた空気から外の空気に触れた瞬間、深い吐息が漏れた。
「これから息子が学校で先生からリンチされるかもしれないと言うのに、ったく」
坂を下りながら、ひとりごちた。まだ約束の時間までたっぷりあったので遠回りすることにした。散歩を楽しむほどの余裕が今の自分にあるのは、まぎれもなく美星のおかげだった。
たこ焼き屋『タコに恩返し』の前の横断歩道を渡り、やけに入り組んだ住宅街に入ってみた。二階建てのアパートが密集しており、時々、怪しげな質屋や営業しているかどうかも怪しいスナックが何軒か続いた。
ふと、アパートの前の駐車場で座り込んでいる少女が目に入った。
体調でも悪いのだろうか。
「キミ……って、工藤さん」
黒縁の伊達眼鏡をしていたが、ツインテールに見覚えがあった。この日はチェックのミニスカートに、灰色のだぼだぼのパーカーを黄色いチューブトップの上から羽織っていた。パーカーは見るからに厚手で、真夏に相応しくない生地だった。袖も長く手のひらの半分ほどは隠れてしまっていた。それが可愛く見えると言えば見えるのかもしれないが、そこに計算の高さは見られない。同じくサンダルも明らかに大人用で、足のサイズが合っていなかった。
同じ目の高さまで中腰になった。
「お父さんやお母さんは?」
「ああ、ふわあああ」
その不安定な物言いに、北理科室でのことが脳裏をよぎる。
「親に言えない事情があるなら、生徒会長とかに聞いてもらうのはどう?」
彼女の交友関係を詳しく知らないので、正しいアドバイスだとは思わなかったが、男の僕よりはいくらかましだろう。
「ぬああ。欲しいよ、薬が。ううううわああ」
見上げて唸り声をあげる彼女。
「薬って、配合1007の、限りなく人間に近いメバチ女子に特化した薬のこと?」
父が見ていた資料の一文が口から出た。
鎮静剤と言い直そうとしたが、工藤乃瑛琉は縋るように僕を見上げ、激しくうなづいた。
尋常じゃないのは、彼女の目を見ればすぐにわかった。
瞳の色が黒から銀色に切り替わる瞬間があった。そういえば、髪の色も出会った時よりも色素が薄くなっている。明るい屋外なので、光の反射の加減でそう見えるだけかもしれないが。
薬は持っていなかったが、飴くらいならボディバッグに入っていたはず。僕は中のポケットをまさぐった。指先に何かが触れた。取り出すと、はちみつ入りのど飴だった。包み紙にひっついくほど古いものだったが、それを見て彼女は手を伸ばしてきた。
「こんなもので良ければ」
掴み取った瞬間、彼女は嬉しそうに口にいれた。
その時、彼女の手首に火傷の痕があるのが見えた。虐待を受けているのかもしれない、直感が働いた。僕は携帯を見ると、学級裁判まではまだ時間があった。
「一緒に、相談所へ行こ?」
敢えて児童相談所とは言わなかった。
特に返事はなかったが、彼女は飴玉を貰って気分が良くなったのかゆっくりと立ち上がった。
美星よりも身長は低かったが、ぶかぶかのパーカーからでもそのグラマラスな胸元は目立っていた。
それにしても、立ち上がるだけで足のふらつきが見て取れる。
満足な食事も与えられていないのだろうか? 顔色も良くない。
携帯で児童相談所の場所を調べた。
以前、足を運んだPCショップ『黄昏』の裏手にある市役所の隣だと判明。ここから徒歩で十分もあれば余裕で着く。ただ、彼女に合わせて歩くと、一歩が半歩のペースなので倍近くかかりそうだった。
彼女は僕のTシャツの裾を掴み、半歩後ろからついて歩いた。
何も喋る必要がないことはわかっていた。それでも、沈黙が気になってしかたがない。とは言え、あいにく女子が笑顔になれるような話題を持ち合わせてはいない。冷静な顔をしながら、内心必死だった。脳内にある少ない数の引き出しをあれこれ引き出しては閉めてを繰り返した。
「工藤さんは、外国の人と話したことってある? 僕は、一回だけあって。ネットってすごいよ? いとも簡単に、別の国の人と繋がれるんだから。彼はさ、タイ人で。でも辛い物が苦手で、タイの有名な料理が食べられないって。面白いよね?」
ぜんぜん面白くない。
兵頭が乗り移ってしまったのかと突っ込みたくなるほど早口になってしまった。
「あと、タトゥーって日本ではまだまだ偏見が多いけど、外国では普通なんだって。タイではね、車に轢かれても死なないって、不死身の神様を彫る人が多いんだって。西洋とは違うんだんーって発見があって面白かったよ」
だから、面白くないって。
もう一人の自分がツッコミを続ける。
「……ヤン」
「え?」
彼女が前方を見ながらつぶやいた。
「サックヤン」
「サックヤン?」
目を瞬きながら、おうむ返しをする。
「不死身の神様」
まさか、こんな話題で膨らむとは思わなかった。
「サックヤンって言うの?」
「お母さん、いろんな国の神様に詳しい」
「そうなんだ!」
「これも、お母さんが、いい子になるためのタトゥーだと思えって」
そう言ってパーカーの襟元を左手で引っ張って左肩を見せた。首筋には縄跳びなんかでできたことのあるミミズ腫れに近い状態に赤くなっていた。
痛々しさに目を逸らしてから僕は真実を口にした。
「それは、違うよ」
「うん。大丈夫。お母さんが好きなものは全部嫌いだから」
飴玉を頬の右に左に転がしながら彼女は答えた。
中学生の女子が吐き出すにはあまりにも残酷で、それを中学生の男子がしっかり受け止めるにはまだまだ若すぎた。
冷や汗なのか暑さによる汗なのか、拭っても拭っても額から流れてきた。
沈黙のまま歩を進めると、左手に団地が見えてきた。
昼間でもカーテンを締め切っている部屋が多く見られ、薄暗い雰囲気が漂っている。
団地から出てくる家族は、皆みすぼらしい格好をしていた。
たった十分程度の距離なのに、僕の家の近所とはだいぶ景色が違って見えた。
「ここのバス停、なんていうか知ってる?」
そう聞かれたので正直に知らないことを告げると、「墓場前」とだけ。
鳥肌を誘う一言に思わず肩をすくめた。
「かつて、墓場だったとか」
「違う。墓場に最も近い人たちが住む」
ゾワゾワっと背筋が寒くなった。
「え? どういうこと?」
「そのまんま」
「……そんな差別的な理由が通るの?」
「まともに働けなくなると、ここに来る、みんな。身体とか心とか悪くなって」
乃瑛琉の言葉を自分なりに整理してみた。
普通の解釈ならば、まともに働けなくなると稼げなくなるから賃金の安い団地に引っ越してくる、と言う意味になる。
でも、彼女の言い方はどこか引っかかった。
必ずしも、まともに働けないから早死にするということはない。
「それは、本当? 近くに墓地があるからじゃないの?」
いまいち信じ切れず再度、尋ねた。
「違う。命が消える時期、なんとなくわかる」
「余命を知らされたりするってこと?」
「違う」
うまく乃瑛琉と話がかみ合わなかった。
ーーー命が消える時期、なんとなくわかる
……かつて美星が似たような言葉を発していた気がする。
ふと、いつか見た、美星と乃瑛琉の夢が脳裏に蘇る。
もしかして、乃瑛琉は美星のことを知っているのかもしれない、そう思って沈黙を破ろうとしてその時。
ずっと掴まれていた裾を急に強く引っ張られた。
おのずと足を止め彼女と同じ方向を見やった。
自転車置き場から、推定三十代後半の男性と、推定二十代後半の女性が下品な笑い声をあげてこちらへと向かってくる。男性は女性の腰に手を回している。
あまりじろじろ見るものでもないので、「行こ?」と先に前足を踏み出そうとした時、女性がこちらに気がついた。
「おまえ、ガキの分際で、なに男といんだよ!」
荒々しい言葉が飛んできた。
「え、知り合い?」
彼女に小声で訊くと、「親」とだけ答えた。
ヒールの迫ってくる音を聞いただけで激怒しているのがわかった。
「とっとと、帰ってこい! 不良!」
「朝まで外にいろって言われたから」
消え入りそうな声だったが、泣きそうな顔はしていなかった。
彼女にとってはあまりにも日常的なことなのかもしれない。
一方、僕はすっかり面食らっていた。情けないことに、横で立っているのがやっとだった。
「ごめんなさい」
謝る必要なんてない。
でもそれを口にできなかった。
「帰るぞ!」
あっという間に僕とは引き離された。
彼女は、「ふああああ、ああああ。薬、薬欲しいよぉぉ」と叫び声をあげた。
周囲にいた家族連れや、ベランダに洗濯物を干していた住民がいっせいに工藤家を見た。
それでも、怯むことなく工藤乃瑛琉の母親は手首を掴んで引き摺るようにして娘を連行していった。
このままじゃ、ダメだ。
あんなまともじゃない家に帰してはダメだ。
駆け足で追いかけて、ぐるりと三人の前に回り込んだ。
「児童虐待ですよ。彼女の身体を傷つけているのを、僕、知ってるんですよ!」
怒号を放ってしまった。
「おい、ガキ。適当なこと言ってんじゃねぇぞ? 謝れ、ゴラ!」
横から男がどすのきいた声で僕の胸倉を掴んできた。
本当は恐怖だった。
一つ年上の先輩でも、さからえないことがあるくらいなのだ。
でも、僕は引き下がらなかった。
悪いものは悪い。
「あなたたちのしていることは、場合によっては犯罪ですよ! 乃瑛琉さんが、怯えているじゃないすか!」
むしろ、糾弾する自分の膝の方が震えていたかもしれない。
「大丈夫。大丈夫だから」
仲裁に入ったのは、工藤乃瑛琉だった。
男は一発殴りでもしないと気が休まらないといった顔をしていたが、ここでは目立ちすぎると思ったのか、足元に唾を吐くにとどまった。
「ガキに構ってられっか」
捨て台詞を吐いた後、、工藤乃瑛琉の手首を掴んで家に戻る女と共に男も踵を返した。
工藤乃瑛琉の後ろ姿を切なく見送る。
強引に今ここから連れ出しても、実の親には適わらないという投げやりな気持ちと、もう少し早くここを抜けて児童相談所に連れて行けば何かしら変わったかもしれないと思う気持ちとの葛藤に苛まれた。自身の非力さを思い知らされたまま、僕はひとりで芽八中ヘと向かった。
キツネザビから言い渡された時間まで、まだ三十分はあった。
昨夜の三人のやりとりを母が知っているのか、はたまたあの場にいなかったのかはわからない。ただひとつ確かなのは、母が僕を見てくれていないことだった。
母の視線の先は、テレビのコメンテーターに向けられたまま。僕もついつられて、目玉焼きの半熟部分を箸で割りながら見てしまう。誰もが思いつきそうな薄っぺらな意見を偉そうに述べている人たちは、とても滑稽だった。
七、八分ほどで食事を終えてしまった。
「ごちそーさん。行ってきます」
「お気をつけて」
母は僕の顔は見ずに、お椀を持って行った。僕は亀裂の入った黒い携帯を握りしめる。昨夜のうちにあれこれ詰めておいたボディバッグを背負い、外に出た。乾いた空気から外の空気に触れた瞬間、深い吐息が漏れた。
「これから息子が学校で先生からリンチされるかもしれないと言うのに、ったく」
坂を下りながら、ひとりごちた。まだ約束の時間までたっぷりあったので遠回りすることにした。散歩を楽しむほどの余裕が今の自分にあるのは、まぎれもなく美星のおかげだった。
たこ焼き屋『タコに恩返し』の前の横断歩道を渡り、やけに入り組んだ住宅街に入ってみた。二階建てのアパートが密集しており、時々、怪しげな質屋や営業しているかどうかも怪しいスナックが何軒か続いた。
ふと、アパートの前の駐車場で座り込んでいる少女が目に入った。
体調でも悪いのだろうか。
「キミ……って、工藤さん」
黒縁の伊達眼鏡をしていたが、ツインテールに見覚えがあった。この日はチェックのミニスカートに、灰色のだぼだぼのパーカーを黄色いチューブトップの上から羽織っていた。パーカーは見るからに厚手で、真夏に相応しくない生地だった。袖も長く手のひらの半分ほどは隠れてしまっていた。それが可愛く見えると言えば見えるのかもしれないが、そこに計算の高さは見られない。同じくサンダルも明らかに大人用で、足のサイズが合っていなかった。
同じ目の高さまで中腰になった。
「お父さんやお母さんは?」
「ああ、ふわあああ」
その不安定な物言いに、北理科室でのことが脳裏をよぎる。
「親に言えない事情があるなら、生徒会長とかに聞いてもらうのはどう?」
彼女の交友関係を詳しく知らないので、正しいアドバイスだとは思わなかったが、男の僕よりはいくらかましだろう。
「ぬああ。欲しいよ、薬が。ううううわああ」
見上げて唸り声をあげる彼女。
「薬って、配合1007の、限りなく人間に近いメバチ女子に特化した薬のこと?」
父が見ていた資料の一文が口から出た。
鎮静剤と言い直そうとしたが、工藤乃瑛琉は縋るように僕を見上げ、激しくうなづいた。
尋常じゃないのは、彼女の目を見ればすぐにわかった。
瞳の色が黒から銀色に切り替わる瞬間があった。そういえば、髪の色も出会った時よりも色素が薄くなっている。明るい屋外なので、光の反射の加減でそう見えるだけかもしれないが。
薬は持っていなかったが、飴くらいならボディバッグに入っていたはず。僕は中のポケットをまさぐった。指先に何かが触れた。取り出すと、はちみつ入りのど飴だった。包み紙にひっついくほど古いものだったが、それを見て彼女は手を伸ばしてきた。
「こんなもので良ければ」
掴み取った瞬間、彼女は嬉しそうに口にいれた。
その時、彼女の手首に火傷の痕があるのが見えた。虐待を受けているのかもしれない、直感が働いた。僕は携帯を見ると、学級裁判まではまだ時間があった。
「一緒に、相談所へ行こ?」
敢えて児童相談所とは言わなかった。
特に返事はなかったが、彼女は飴玉を貰って気分が良くなったのかゆっくりと立ち上がった。
美星よりも身長は低かったが、ぶかぶかのパーカーからでもそのグラマラスな胸元は目立っていた。
それにしても、立ち上がるだけで足のふらつきが見て取れる。
満足な食事も与えられていないのだろうか? 顔色も良くない。
携帯で児童相談所の場所を調べた。
以前、足を運んだPCショップ『黄昏』の裏手にある市役所の隣だと判明。ここから徒歩で十分もあれば余裕で着く。ただ、彼女に合わせて歩くと、一歩が半歩のペースなので倍近くかかりそうだった。
彼女は僕のTシャツの裾を掴み、半歩後ろからついて歩いた。
何も喋る必要がないことはわかっていた。それでも、沈黙が気になってしかたがない。とは言え、あいにく女子が笑顔になれるような話題を持ち合わせてはいない。冷静な顔をしながら、内心必死だった。脳内にある少ない数の引き出しをあれこれ引き出しては閉めてを繰り返した。
「工藤さんは、外国の人と話したことってある? 僕は、一回だけあって。ネットってすごいよ? いとも簡単に、別の国の人と繋がれるんだから。彼はさ、タイ人で。でも辛い物が苦手で、タイの有名な料理が食べられないって。面白いよね?」
ぜんぜん面白くない。
兵頭が乗り移ってしまったのかと突っ込みたくなるほど早口になってしまった。
「あと、タトゥーって日本ではまだまだ偏見が多いけど、外国では普通なんだって。タイではね、車に轢かれても死なないって、不死身の神様を彫る人が多いんだって。西洋とは違うんだんーって発見があって面白かったよ」
だから、面白くないって。
もう一人の自分がツッコミを続ける。
「……ヤン」
「え?」
彼女が前方を見ながらつぶやいた。
「サックヤン」
「サックヤン?」
目を瞬きながら、おうむ返しをする。
「不死身の神様」
まさか、こんな話題で膨らむとは思わなかった。
「サックヤンって言うの?」
「お母さん、いろんな国の神様に詳しい」
「そうなんだ!」
「これも、お母さんが、いい子になるためのタトゥーだと思えって」
そう言ってパーカーの襟元を左手で引っ張って左肩を見せた。首筋には縄跳びなんかでできたことのあるミミズ腫れに近い状態に赤くなっていた。
痛々しさに目を逸らしてから僕は真実を口にした。
「それは、違うよ」
「うん。大丈夫。お母さんが好きなものは全部嫌いだから」
飴玉を頬の右に左に転がしながら彼女は答えた。
中学生の女子が吐き出すにはあまりにも残酷で、それを中学生の男子がしっかり受け止めるにはまだまだ若すぎた。
冷や汗なのか暑さによる汗なのか、拭っても拭っても額から流れてきた。
沈黙のまま歩を進めると、左手に団地が見えてきた。
昼間でもカーテンを締め切っている部屋が多く見られ、薄暗い雰囲気が漂っている。
団地から出てくる家族は、皆みすぼらしい格好をしていた。
たった十分程度の距離なのに、僕の家の近所とはだいぶ景色が違って見えた。
「ここのバス停、なんていうか知ってる?」
そう聞かれたので正直に知らないことを告げると、「墓場前」とだけ。
鳥肌を誘う一言に思わず肩をすくめた。
「かつて、墓場だったとか」
「違う。墓場に最も近い人たちが住む」
ゾワゾワっと背筋が寒くなった。
「え? どういうこと?」
「そのまんま」
「……そんな差別的な理由が通るの?」
「まともに働けなくなると、ここに来る、みんな。身体とか心とか悪くなって」
乃瑛琉の言葉を自分なりに整理してみた。
普通の解釈ならば、まともに働けなくなると稼げなくなるから賃金の安い団地に引っ越してくる、と言う意味になる。
でも、彼女の言い方はどこか引っかかった。
必ずしも、まともに働けないから早死にするということはない。
「それは、本当? 近くに墓地があるからじゃないの?」
いまいち信じ切れず再度、尋ねた。
「違う。命が消える時期、なんとなくわかる」
「余命を知らされたりするってこと?」
「違う」
うまく乃瑛琉と話がかみ合わなかった。
ーーー命が消える時期、なんとなくわかる
……かつて美星が似たような言葉を発していた気がする。
ふと、いつか見た、美星と乃瑛琉の夢が脳裏に蘇る。
もしかして、乃瑛琉は美星のことを知っているのかもしれない、そう思って沈黙を破ろうとしてその時。
ずっと掴まれていた裾を急に強く引っ張られた。
おのずと足を止め彼女と同じ方向を見やった。
自転車置き場から、推定三十代後半の男性と、推定二十代後半の女性が下品な笑い声をあげてこちらへと向かってくる。男性は女性の腰に手を回している。
あまりじろじろ見るものでもないので、「行こ?」と先に前足を踏み出そうとした時、女性がこちらに気がついた。
「おまえ、ガキの分際で、なに男といんだよ!」
荒々しい言葉が飛んできた。
「え、知り合い?」
彼女に小声で訊くと、「親」とだけ答えた。
ヒールの迫ってくる音を聞いただけで激怒しているのがわかった。
「とっとと、帰ってこい! 不良!」
「朝まで外にいろって言われたから」
消え入りそうな声だったが、泣きそうな顔はしていなかった。
彼女にとってはあまりにも日常的なことなのかもしれない。
一方、僕はすっかり面食らっていた。情けないことに、横で立っているのがやっとだった。
「ごめんなさい」
謝る必要なんてない。
でもそれを口にできなかった。
「帰るぞ!」
あっという間に僕とは引き離された。
彼女は、「ふああああ、ああああ。薬、薬欲しいよぉぉ」と叫び声をあげた。
周囲にいた家族連れや、ベランダに洗濯物を干していた住民がいっせいに工藤家を見た。
それでも、怯むことなく工藤乃瑛琉の母親は手首を掴んで引き摺るようにして娘を連行していった。
このままじゃ、ダメだ。
あんなまともじゃない家に帰してはダメだ。
駆け足で追いかけて、ぐるりと三人の前に回り込んだ。
「児童虐待ですよ。彼女の身体を傷つけているのを、僕、知ってるんですよ!」
怒号を放ってしまった。
「おい、ガキ。適当なこと言ってんじゃねぇぞ? 謝れ、ゴラ!」
横から男がどすのきいた声で僕の胸倉を掴んできた。
本当は恐怖だった。
一つ年上の先輩でも、さからえないことがあるくらいなのだ。
でも、僕は引き下がらなかった。
悪いものは悪い。
「あなたたちのしていることは、場合によっては犯罪ですよ! 乃瑛琉さんが、怯えているじゃないすか!」
むしろ、糾弾する自分の膝の方が震えていたかもしれない。
「大丈夫。大丈夫だから」
仲裁に入ったのは、工藤乃瑛琉だった。
男は一発殴りでもしないと気が休まらないといった顔をしていたが、ここでは目立ちすぎると思ったのか、足元に唾を吐くにとどまった。
「ガキに構ってられっか」
捨て台詞を吐いた後、、工藤乃瑛琉の手首を掴んで家に戻る女と共に男も踵を返した。
工藤乃瑛琉の後ろ姿を切なく見送る。
強引に今ここから連れ出しても、実の親には適わらないという投げやりな気持ちと、もう少し早くここを抜けて児童相談所に連れて行けば何かしら変わったかもしれないと思う気持ちとの葛藤に苛まれた。自身の非力さを思い知らされたまま、僕はひとりで芽八中ヘと向かった。
キツネザビから言い渡された時間まで、まだ三十分はあった。