7、禁断の部屋

文字数 2,952文字

夢うつつなひとときが悪夢へと変わった瞬間。
廊下に飛び出してきた看護師が、非常階段からの脱出を患者たちに呼びかける声と、院内放送はほぼ同時だった。 
 こんな時でもエリカは生徒会で必要なものをカートにすべて詰め込む。
「そんなもの、置いて行け!」
「馬鹿なこと言うな! 例大祭はあたしのすべてだ!」
 強情なエリカを説得するのは不可能。
 しかたなく左手でカートを、右手にローファーを履いて走りづらそうにするエリカの手を引き、廊下から飛び出した。老若男女問わず、どの患者もおぼつかない足取りで、周りの反応をうかがっている。
 ひとりの看護師が、誘導灯を振り回して「最上階で火災です! みなさん、こちらから逃げてください。その際、慌てず、足元に注意してください」と呼び掛ける。
大勢の患者たちは、いっせいに同じ方向へと駆け出した。
 非常階段にはすでに多くの患者たちでぎゅうぎゅうに詰まっていた。短時間で下の階の患者たちも集まり殺到したせいだろう。
「忘れ物をした。悪い、先に避難しててくれ」
 この期に及んでそんな悠長なことを言って列を抜け出そうとしたので、慌てて華奢な手首を捕まえた。
「正気か? 火災を侮るな! あっという間だぞ!」
思った以上に怒声が響く。
 エリカの瞳に動揺が見て取れる。
しかし、僕の手を強く振り払おうとするエリカに「忘れたものは?」と静かに訊いてやった。
「パソコンだ。大事な大事なデータが入った、パソコン」
PCオタクの自分が同じ状況に陥ったとしたら、確かにまだ間に合うかもしれないと、浅はかながら取りに戻るかもしれない。
「質問攻めを覚悟しておけよ」
 身体を張って女子を助けるなんてのは、いつもの自分では考えられないこと。それなのに、カートを乱暴に押し付けた隙に人の流れに逆らって全速力で走った。こんな勇気があったとは自分でも驚きだった。
病室へ戻ると、真っ先にノートPCを探した。
 なかなか見当たらず焦燥感に駆られる一方だったが、カーテンの隙間から伸びるコードがテレビ裏まで続いているのを確認。カーテンを勢いよく開けると、やはりそこに置いてあった。すぐにコードを抜いてポケットに押し込み、PCを抱えて病室を飛び出した。
 ここは六階で最上階は七階。だが、いまだ火煙もなければ何かが燃える匂いも漂ってはきていない。
非常階段まで走ろうとしたが、緊急時に天井から降りてくる壁によってゆく手を阻まれてしまった。
「くそっ」
 前歯で下唇を噛みながら他の逃げ道を探った。
 念のためエレベーターの前まで行ったが、ボタンを押しても階数表示は光らなかった。
 仕切られた壁を背に反対側に階段があることを願いながら走った。
 しかし、突き当たりには自動販売機と喫煙所があるだけで他の階へ行く術はなかった。
 額に冷や汗が流れる。
 これまでか、と思ったその時。
ふたつの自販機の間の壁にドアがあり、薄っすらと開いていることがわかった。
 助かる!
 PCを抱えたまま、右足のつま先を隙間に入れて押し開けた。人を感知して点くライトが足元を気持ち照らした。大人一人がやっと入れるスペースだったが、半地下への階段があった。一般人が立入っても良いかは怪しかったが、六階から移動できるならばこの際どうでも良かった。
 すぐに行き止まりがあり、再び右手にドアが出現。迷っている暇はない。ドアノブを回して押し開けようとした。だが、ぐっしょり汗ばむ手でうまく開けられない。急いで右の手のひらをシャツでこするように拭いた。もう一度トライ。
 すると、どこにこんなスペースがあったのかと思うほど広い部屋に出た。薄暗い部屋の中央には、水族館にでも来たのかと思うほど巨大な筒状の水槽が地面から天井にかけて建っていた。
 戦々恐々しながら水槽に近づくと、目の高さよりずっと上に丸いものが浮かんでいる。いびつな形をしてはいるが、巨大な蜂の巣と言えばいいだろうか。
 青い光を帯びた水中には、頭部と骨だけの透明の魚や、タツノオトシゴに似てはいるが奇抜な色の生物が数匹泳いでいた。
「ではない、タツノオトシゴ。キミが見ている生き物。が正しい、ウィーディーシードラゴン」
 突然、少しハスキーで、どことなく艶っぽい男の声がした。反射的に水槽の周りに視線を巡らしたが、誰の姿もない。
いったい、どこから……。
「脳と繋がっている。を経由して私を見ている、水槽の中の生き物」
 独特な話し方をする男の姿は依然として見当たらない。得体の知れない恐怖が足元からゾッと立ち込める。
 巨大な水槽の周りを警戒しながら歩き進んでいると、行く手を塞がれた。どうやら、巨大な水槽から太い配管が壁に設置された機械まで伸びているようだ。
 突如、巨大な水槽と機械とを繋ぐ部分がスライドすると、中からドライアイスのような白煙が黙々と流れ出てきた。
 それだけじゃない。顔全体を包帯で覆われ、腹部に大きな目立つ傷跡を持つ人間が横たわっていた。
 抉られたような跡だったが、鋭いもので何度も同じ場所を刺されたようにも見えた。
 震え上がる声は音にならなかった。
「ではない、火災。外に出よ、反対側のドアを抜けて」
 顔を覆われた男は、逃げ道を教えてくれた。腰を抜かしそうになったが、しっかりとノートPCを抱えたまま言われる通りにした。
 ドアの先は滑り台のようになっていて、暗闇の中を凄まじい勢いで落下してゆく。顔面に吹き荒れる風は生暖かく、生ごみの饐えた(すえた)臭いが混じっていた。
 最後は尻を突き上げられるようにして、瞬く間に外へと押し出された。
 刹那、見慣れない景色に困惑した。
 市立病院内で、あのような非現実的な巨大水槽を見た後だ。異次元へ飛ばされたとしてもおかしくはない。しかし、辺りは暗かったが、予想に反して小さなこんにゃく畑と、まだ伸び切れていない彼岸花が視界に広がっていた。
 立ち上がって後ろを怖ず怖ずと振り返った時、ようやく自分が病院の裏側に出たことを認めた。
 ポケットが振動する。
 携帯を持ち歩いていたことすら忘れていた。
「あたしのPCは無事か?」
 その第一声で、身体中を覆っていた緊張感は吹き飛んだ。
「酷いやつだな」
「冗談だ」
「知ってる」
 少しの間、そこで言葉は途切れたが、きっと僕も彼女も同じ思いを噛み締めていただろう。
「PC、いますぐ返して」
「本当に酷いやつだな」
 結局、昨夜の騒ぎは火災ではなく、原因は患者一人の暴走と公表された。他の患者と取っ組み合いになり、慌てて別の患者が非常ベルを押したことで大事に発展。幸い、当事者同士も軽い怪我で済んだというが、どこまで真実か。
 すでにあの病院に対しては不信感を抱いている。
 あの巨大な水槽がフラッシュバックして、鳥肌が立つ。水中の蜂の巣に似た奇妙な物体。水槽に繋がれていた奇妙な喋り方をする人物。
 PCを渡す時、神妙な面持ちの僕にエリカは「親が迎えに来る。おまえも家に帰って早く寝ろ」と彼女なりに気を遣ってくれた。
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登場人物紹介

◆鬼月丹司


芽八市に引っ越してきた中学二年生。

PCと散歩が趣味。

大らかで誰とでも打ち解ける性格。


◆美星

(イラスト/ちすお様)


丹司が家の近所で出会った浴衣姿の

ミステリアスな少女。

猫のグージーと暮らしている。

人目を極端に避けようとする。

◆グージー

(イラスト/高橋直樹様)


美星といつもいるキジ白猫。

◆黄賀エリカ

(イラスト/ちすお様)


生徒会長。身長と胸のサイズを気にしている。

昼間は屍のように机に突っ伏しているが、

放課後になると、生徒会の仕事に活発に取り組む。

美麗な容姿に似合わず男っぽい口調。


◆右京ほたる

(イラスト/ちすお様)


本業は巫女。

冷静沈着で、積極的に人とかかわりを持たない。

冷ややかな口調だが、けっして不機嫌なわけでない。


◆工藤乃瑛琉

(イラスト/ちすお様)


童顔の容姿に似合わずグラマラス。

ふわふわとした物言いで、

心を読み取りづらい。

虚弱体質で不登校がちのようだが・・・。

◆兵頭新之助


裏生徒会長。

当初は丹司に対して高圧的な態度で

接していたが、丹司のあっけらかんとした

性格に気圧され、徐々に仲を深めてゆく。

実は、仲間思い。


◆相沢真澄


裏生徒会メンバーのひとり。

理知的で物静かだが、

意見はハッキリと口にする。

親が町一番の金持ち。

◆石井悠善


通称石井ちゃん。

裏生徒会メンバーのひとり。

兵頭を心酔し、腰ぎんちゃくのように

兵頭と行動を共にする。


◆マサヤ伯父さん


市街に住む丹司の伯父。

中学の技術の先生。

仕事にのめり込む丹司の父を心配する。

◆キツネザビ


担任の先生。

口が悪く特に転校生の丹司に

冷たい態度をとる。

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