15、敵か味方か
文字数 2,706文字
ここは、日常の延長なのか、非日常の入り口なのか。いつのまにやら、僕は神社の中央に立っていた。
僕は、ほたるの動きを注視していただけ。その、肝心のほたるは何処へ?
ちょうど、女蜂神の文字が印字された幟(のぼり)と幟の間にある階段を上ってゆく彼女のうしろ姿を認めた。
彼女は巫女装束を着ていた。
周囲を見渡してから、できるだけ足音を立てずに社へと近づいた。
こちらの気配には気づいていない様子だ。こちらの視線を気にかける風もなく、一生懸命ガラスのショーケースを拭いている。
次に、手袋を装着させた状態で天狗、異形、翁、猫、おかめなどを移動させて、はたきで埃を払いだした。
巫女の仕事を邪魔してはいけないと思い立ち、その場から立ち去ろうとしたその時。シンナーに近い、ツンとした悪臭が鼻腔を刺激した。
反射的に口元を押さえる。
「右京さん、なんか変な臭いしない?」
軽い気持ちで声をかけたが、彼女としてはここに自分以外の人間がいることは計算外だったようだ。ぎょろっと見開いた両目からは、普段の彼女らしい冷静さは微塵も感じられず、むしろ怒りと動揺がないまぜになったような感情が伝わってきた。
「ど、どうしてここに?」
その上擦った声からも、彼女らしからぬ動揺が見て取れる。
「驚かせてごめん。ただ、すごい悪臭がしてきたから」
彼女が壁すれすれまで下がった拍子に、鰐の面が足元に落ちた。
「何か落ちたよ?」
「えっ」
こちらの一挙手一投足に過剰反応する彼女に僕は目を光らせた。
「ああ、私ったら……」
素早く鰐の面を拾い上げ、表面についた汚れを指先で払ってみせる。
「あ、その臭いだよ、右京さん!」
彼女が手袋をしながら持っていた鰐の面を指差して叫んだ。
「ちょっと、劣化しているから面の修復をしていたの。特殊なコーティング剤だから臭うかもしれなけど。そ、それより、鬼月くん、私になにか用でも?」
「番外面鰐はその下の段だよ」
すでに壁に掛かっているひょっとこの上で、鰐の面を持つ手を泳がせていたほたるは、僕の指摘に肩をビクッとさせた。
「最近、落ち込むことが多くて。神様の力でもお借りしようかなって、参拝しに来たんだよ。そしたら、巫女姿の右京さんが見えたから」
でまかせの言葉だったが、神頼みしたいことは事実山ほどある。
「そうなの? なら、こんなところじゃなくて向こうの本殿でお祈りすると良いわ」
社から出て右手に見える建物を積極的に案内された。
「ありがとう。じゃあまた例大祭でね」
「ええ」
僕は何も知らない、何も見てない。
そんな、人畜無害のクラスメイトを演じた。
何がきっかけかは判然としないが、失っていた僕の記憶は完全に戻っていた。
---鰐の面の少女、美星が危ない!
その現場を目の当たりにした以上、今後は右京ほたるの動向を常に見張らなければならない。
ひとまず本殿で僕は一揖(いちゆう)した。
そして、一歩前に出て鈴を鳴らして、神様に自分がやって来たことを知らせた。
賽銭箱に五円玉を投げ入れ、目の前の木札に書かれてある、『二礼、二拍手、一礼』の通りに行った。
記憶を取り戻せた以上、伝えることはただ一つ。
数歩退いて本殿に背を向けた。
ふいに視線を見上げると、右京ほたるは社務所の二階にいた。
腕を高く上げて舞の練習をしていた。祭祀で舞うことも巫女の仕事だと本で知識を得たことがある。
しかし、彼女をただ美しいクラスメイトと位置づけるのはもはや難しかった。彼女は鰐の面の裏に毒を塗っていた。その意図を探らねばならない。
窓際にいる彼女には神社を出たように見せかけ、実際は木陰から社に侵入。身を低くして素早く中に入った。
しかし、鼻にツンとくる悪臭はまるで漂ってこなかった。
ガラスケースにはもちろん鍵がかかっていた。
一時的に持ち出せば窃盗になってしまうが、これを美星がかぶってしまったらと思うと気が気じゃなかった。
やはり、これは現実世界ではないのだろうか?
できれば僕は、ほたるへの疑念を打ち消したかった。
突然、携帯が鳴った。
画面には親父の2文字。
「何かあった?」
僕の第一声に被せてくるように父もまた切羽詰まった声で話しかけてきた。
「担任の岡林先生がおまえに謝罪したいと言っている。今から、家に行くとのことだ。私は当直があって帰れないが、今どこにいる?」
不穏な展開。
転校初日から悪態をついてきたあの極悪教師が、リンチさながらの暴力を働いておきながら今さら謝罪? それも、平日の昼間ときた。
両親がいない時間帯を狙っての訪問には裏があるとしか思えない。
「僕ひとりで会えっていうの?」
つっけんどんに返す。
「謝罪なんだぞ? 一日も早くおまえに謝罪したいと言っているんだ。何が気に食わない。慰謝料なら、ちゃんと請求してやるから安心しろ」
父はやや苛立った声で威圧的に言った。
息子が味わった震えるほど恐怖したあの日の全容を父は知らないのだ。いや、知ろうともしない。
「なら、なんで入院先の病院に来なかったんだよ。あいつ。警察沙汰になることを恐れて、いや、刑罰を恐れてそんなことを言い始めたんだよ。こっちは、弁護士をつけるべきだと思うけど? 息子のこと、心配じゃないの? 父さんにとって、浩司だけが息子だったの?」
完全に血が上っていた。捲し立てるように不満をぶちまけてしまった。それでも、息子の悲痛の叫びは実の父親の心には微塵も届かないようだ。
「郷に入っては郷に従えという諺を丹司は知らないのか。父さんの仕事は、この町にあるんだ。おまえたちを養っていくためだ。和解したいというならば、受け入れろ。あとで学校に文句ならいくらでも言ってやる。取り敢えず、外にいるなら早く家に帰りなさい」
冷淡な口調。
一方的に被害に遭った実の息子への慰めの言葉はないのか。
近くにあった石ころを思い切り蹴り飛ばした。
誰かの家に逃げ込もうかとも思ったが、芽八市で自分から電話を掛けられる相手は限られていた。
マサヤ伯父さんが生きてくれていたら。
弱音を吐き出せる相手だった。
マサヤ伯父さんの死を思い出すと、目頭が熱くなった。
結局、帰る場所は自宅しかない。
鰐の面の少女、美星の危機を直感しておきながら、思い切った行動を起こせずにおずおずと自宅に向かう自分が何とも情けなかった。
僕は、ほたるの動きを注視していただけ。その、肝心のほたるは何処へ?
ちょうど、女蜂神の文字が印字された幟(のぼり)と幟の間にある階段を上ってゆく彼女のうしろ姿を認めた。
彼女は巫女装束を着ていた。
周囲を見渡してから、できるだけ足音を立てずに社へと近づいた。
こちらの気配には気づいていない様子だ。こちらの視線を気にかける風もなく、一生懸命ガラスのショーケースを拭いている。
次に、手袋を装着させた状態で天狗、異形、翁、猫、おかめなどを移動させて、はたきで埃を払いだした。
巫女の仕事を邪魔してはいけないと思い立ち、その場から立ち去ろうとしたその時。シンナーに近い、ツンとした悪臭が鼻腔を刺激した。
反射的に口元を押さえる。
「右京さん、なんか変な臭いしない?」
軽い気持ちで声をかけたが、彼女としてはここに自分以外の人間がいることは計算外だったようだ。ぎょろっと見開いた両目からは、普段の彼女らしい冷静さは微塵も感じられず、むしろ怒りと動揺がないまぜになったような感情が伝わってきた。
「ど、どうしてここに?」
その上擦った声からも、彼女らしからぬ動揺が見て取れる。
「驚かせてごめん。ただ、すごい悪臭がしてきたから」
彼女が壁すれすれまで下がった拍子に、鰐の面が足元に落ちた。
「何か落ちたよ?」
「えっ」
こちらの一挙手一投足に過剰反応する彼女に僕は目を光らせた。
「ああ、私ったら……」
素早く鰐の面を拾い上げ、表面についた汚れを指先で払ってみせる。
「あ、その臭いだよ、右京さん!」
彼女が手袋をしながら持っていた鰐の面を指差して叫んだ。
「ちょっと、劣化しているから面の修復をしていたの。特殊なコーティング剤だから臭うかもしれなけど。そ、それより、鬼月くん、私になにか用でも?」
「番外面鰐はその下の段だよ」
すでに壁に掛かっているひょっとこの上で、鰐の面を持つ手を泳がせていたほたるは、僕の指摘に肩をビクッとさせた。
「最近、落ち込むことが多くて。神様の力でもお借りしようかなって、参拝しに来たんだよ。そしたら、巫女姿の右京さんが見えたから」
でまかせの言葉だったが、神頼みしたいことは事実山ほどある。
「そうなの? なら、こんなところじゃなくて向こうの本殿でお祈りすると良いわ」
社から出て右手に見える建物を積極的に案内された。
「ありがとう。じゃあまた例大祭でね」
「ええ」
僕は何も知らない、何も見てない。
そんな、人畜無害のクラスメイトを演じた。
何がきっかけかは判然としないが、失っていた僕の記憶は完全に戻っていた。
---鰐の面の少女、美星が危ない!
その現場を目の当たりにした以上、今後は右京ほたるの動向を常に見張らなければならない。
ひとまず本殿で僕は一揖(いちゆう)した。
そして、一歩前に出て鈴を鳴らして、神様に自分がやって来たことを知らせた。
賽銭箱に五円玉を投げ入れ、目の前の木札に書かれてある、『二礼、二拍手、一礼』の通りに行った。
記憶を取り戻せた以上、伝えることはただ一つ。
数歩退いて本殿に背を向けた。
ふいに視線を見上げると、右京ほたるは社務所の二階にいた。
腕を高く上げて舞の練習をしていた。祭祀で舞うことも巫女の仕事だと本で知識を得たことがある。
しかし、彼女をただ美しいクラスメイトと位置づけるのはもはや難しかった。彼女は鰐の面の裏に毒を塗っていた。その意図を探らねばならない。
窓際にいる彼女には神社を出たように見せかけ、実際は木陰から社に侵入。身を低くして素早く中に入った。
しかし、鼻にツンとくる悪臭はまるで漂ってこなかった。
ガラスケースにはもちろん鍵がかかっていた。
一時的に持ち出せば窃盗になってしまうが、これを美星がかぶってしまったらと思うと気が気じゃなかった。
やはり、これは現実世界ではないのだろうか?
できれば僕は、ほたるへの疑念を打ち消したかった。
突然、携帯が鳴った。
画面には親父の2文字。
「何かあった?」
僕の第一声に被せてくるように父もまた切羽詰まった声で話しかけてきた。
「担任の岡林先生がおまえに謝罪したいと言っている。今から、家に行くとのことだ。私は当直があって帰れないが、今どこにいる?」
不穏な展開。
転校初日から悪態をついてきたあの極悪教師が、リンチさながらの暴力を働いておきながら今さら謝罪? それも、平日の昼間ときた。
両親がいない時間帯を狙っての訪問には裏があるとしか思えない。
「僕ひとりで会えっていうの?」
つっけんどんに返す。
「謝罪なんだぞ? 一日も早くおまえに謝罪したいと言っているんだ。何が気に食わない。慰謝料なら、ちゃんと請求してやるから安心しろ」
父はやや苛立った声で威圧的に言った。
息子が味わった震えるほど恐怖したあの日の全容を父は知らないのだ。いや、知ろうともしない。
「なら、なんで入院先の病院に来なかったんだよ。あいつ。警察沙汰になることを恐れて、いや、刑罰を恐れてそんなことを言い始めたんだよ。こっちは、弁護士をつけるべきだと思うけど? 息子のこと、心配じゃないの? 父さんにとって、浩司だけが息子だったの?」
完全に血が上っていた。捲し立てるように不満をぶちまけてしまった。それでも、息子の悲痛の叫びは実の父親の心には微塵も届かないようだ。
「郷に入っては郷に従えという諺を丹司は知らないのか。父さんの仕事は、この町にあるんだ。おまえたちを養っていくためだ。和解したいというならば、受け入れろ。あとで学校に文句ならいくらでも言ってやる。取り敢えず、外にいるなら早く家に帰りなさい」
冷淡な口調。
一方的に被害に遭った実の息子への慰めの言葉はないのか。
近くにあった石ころを思い切り蹴り飛ばした。
誰かの家に逃げ込もうかとも思ったが、芽八市で自分から電話を掛けられる相手は限られていた。
マサヤ伯父さんが生きてくれていたら。
弱音を吐き出せる相手だった。
マサヤ伯父さんの死を思い出すと、目頭が熱くなった。
結局、帰る場所は自宅しかない。
鰐の面の少女、美星の危機を直感しておきながら、思い切った行動を起こせずにおずおずと自宅に向かう自分が何とも情けなかった。