1、診断と留守電と誤解と
文字数 4,717文字
手を握られていた。
思えば、最後に僕の手を握ってくれたのは誰か。
---母さんだ
手の甲に浮き出た血管や皮膚の感触もソックリだ。
おもむろに目を開けると、母が目に涙をためて見下ろしていた。
僕を見ている母を久しぶりに見た気がする。
「ごめん。心配かけて」
母は、何度か口を開けては話しだそうとするものの、うまく言い出せない様子だった。
そのうち、看護師が入ってきて僕の容態を確認する。
ここは芽八市立病院。
どうやら僕は、丸二十六時間も昏睡状態に陥っていたらしい。腹部に毒針が刺さっていたので、それを吸いだし消毒したとのこと。
思わず、「毒針ってなんですか?」と質問。
「アナフィラキシーショックを発症していたのです。蜂に刺されたのでしょう。あと五分でも遅ければ、命を落としていたかもしれませんよ」
「蜂に?」
頭が真っ白になった。
気を失う直前、自分がどこにいたのかを必死に思い出す。
山? 森? 違う、学校だ。
そうだ、キツネザビの一味なのかわからないが、元生徒会メンバーとやらに、正気の沙汰とは思えないことをされたのだ。
虚ろな目の元生徒会メンバー四人がいっせいに飛びかかってきた時、背後から太い尾のようなものが伸びてきた。あまりに一瞬のことだったので、それが何かは分からなかったが、気づくと腹部に猛烈な痛みが走っていた。
正直、今すぐにでも警察に電話してキツネザビが犯した罪について告発したかったが、反面、見知らぬ大人と話すのを避けたい気持ちもあった。認めたくはないが、あの教室である種の恐怖を植えつけられたことは紛れもない事実だった。
「最低でもあと二日はここで安静にしていて下さい」
看護師の対応はあまりにも素っ気なかった。命に別条がないと決まればこんなものなのかもしれないが。
ムスッとした自分の態度とは対照的に、お人好しの母は礼を述べて看護師を見送った。
「マサヤ伯父さんから聞いたよ。芽八市へ引っ越すことを、親戚中が反対してたんだって? 母さんは、いつも父さんがやりたいことに従うけど、今回の引っ越しについては正直どう思ってるの?」
母だけを咎めるつもりはなかったが、自責の念に駆られてか、目の前で深く俯いてしまった。
「そうね。確かに止められたわ。ただ、丹司も知っていると思うけど。マサヤ伯父さん以外は、中学しかでていなかったり、倒産していたり、ギャンブルで面倒を起こしたりで、お父さんの仕事に対してもともと快く思っていない人たちなのよ。善意から引き留めてくれたとは思えなかった。でもね、鬼月の伯父さんが亡くなる数時間前に、家の電話に留守電メッセージが入っていたの」
母の目に暗い影が指した。
「伯父さん、なんて?」
「これを聞いて欲しいの」
そう言ってショルダーバッグから取りだした携帯を、僕の耳元にあてた。
「鬼月雅也です。電車に乗っています。時間がないので挨拶は省きます。丹司くんの携帯だけでは不安なので、こちらにもメッセージを残しておきます。信じがたい話かもしれませんが、僕も普段真顔でこんな戯言はいいません。それを踏まえて聞いてもらいたいのです。電車で西芽八に向かう途中、耳元でブンブン蜂が飛び回るような雑音がして気持ち悪くなりました。でも、近くで蜂は飛んでいないのです。車両を変えると、その音はいったんおさまったのですが、今度は奇妙な声が頭上から聞こえてきたのです。ヨソモノカエレ、ヨソモノミナゴロシと。因みに移った車両には、腕を組んで寝ている坊主と、寄り添って眠る男女のカップルだけ。気味が悪くなって次の駅で降りたんです。そのうちまた体調が良くなってきたので、二台くらい見送ってから西芽八行きの電車に再び乗ったんです。つい、五分前のことです。そしたらまた、聞こえてきたんです。いや、いまも聞こえているんです。物騒な言葉が……。単なる幻聴だとは思うのですが、ふと、浩司くんのことをお」
不吉な余韻を残し、話の途中で切れた。
意味するところを説明して欲しいとせがむような視線を母に送る。
「亡くなった日の朝、家の留守電に入っていたの」
「やっぱり、ただの事故ではないな」
一連の怪奇な出来事に関連性はあるだろうか。
最後に言いかけたセリフも気になった。
「丹司の同級生から連絡があった時、生きた心地がしなかったわ。学校で作業中に怪我をしたって聞いたから、浩司に次いで丹司まで奪われてしまうんじゃないかって。そういう意味では、お父さんと一緒に芽八へきたことは後悔してるわね」
「待って!」
勢いよく前のめりになった。
「僕がここにいるって誰が連絡してきたの?」
「わからないわ」
「着信時に番号は表示されてた?」
「非通知だったわ」
もしかすると、その電話をかけてきた人が僕を病院へ連れてきたのではないかと推察する。あの場で、キツネザビが救急車を呼ぶとは思えない。
「声の特徴とか、口癖とか何でもいいから覚えてることを教えて欲しいんだけど」
母は、右手を頬に当てながら小首を傾げた。
「うんと低い声だった?」
「それはないわね。慌てていただけかもしれないけど、比較的早口だったわね。あと、最後に、すんません、俺のせいでって言ってたわ……」
低音ボイスの相沢は選択肢から消えた。兵頭と石井はどちらも一人称は俺だが、早口となると兵頭の可能性が高い。
……俺のせいで、俺のせいで……。
思い当たることがないわけではなかった。あくまでも推測に過ぎないが、学級裁判の前日。電波塔で兵頭といる時、彼に電話がかかってきた。その時の着信相手がキツネザビ、またはその一味だとしたら? あの日、兵頭は半ば脅されていたようにも見受けられた。僕から遠ざかるように電話をしていたのも気がかりだった。さらに、兵頭の口ぶりからして自分より目上の者であったはず。
僕の知らないところで、いや、もしかすると僕を含めた生徒たちの知らないところで大きな陰謀が働いているのかもしれない。
本当の黒幕は教師の岡林ではない気がした。
顔を上げると、さんざん詰問しておきながら急に閉口した僕を母は心もとなげに見つめていた。
「学校でどんな作業をしたのか、そこまでは聞いていない?」
「聞いてないけど……。クラスメイトの人たちとじゃないの?」
敢えてここで恐怖の体験の全容を口にはしなかった。
「……母さんは、実家に避難した方が良いよ」
「え?」
ベッドは白いカーテンで覆われていたが、誰が盗み聞きしていてもおかしくない。
僕は母を手招くと耳元でこうささやいた。
「心配させたくないんだけど、僕は狙われている。ここからは、直感でしかないけど、おそらくマサヤ伯父さんを死に追い込んだ者と同じだと思う。僕と会うことになっていたのは、この芽八市に対してふたりとも疑問を持っていたからなんだ。詳しく話すと長くなるけど、僕とマサヤ伯父さんはこの町にとって目の上のたんこぶなんだと思う」
母の目は怯えていたが、息子の言葉を一言一句、真剣に聞いてくれた。
「だから、できるだけ早く実家に身を隠した方が賢明だと思う。父さんの帰りが早ければ良いんだけど、日に日に帰宅時間は遅くなってるし……」
父の話題を自ら出してはみたものの、学級裁判前日に喧嘩したっきりだった。
今頃は、鬼畜教師に肩を持ったことを後悔しているだろう。そう願いたい。
「鬼月の伯父さんの死の原因究明については、お母さんもできるかぎり探ってみるわ」
母が強い意志を持って話すのは珍しかった。普段は強い意見を持たない。ましてや、それを押し通そうという気概もない母。たとえ芽八市に対する反感を持とうとも、誰かにその気持ちが知られる機会は僕より少ないだろう。弟が亡くなってからは、ほとんど誰とも付き合わなくなり、家を出るのは買い物くらいだった。
それでも、マサヤ伯父さんや僕たちと同じ側にいる母が安全とは思わない。
「でも、やっぱり丹司を置いてはいけないわ」
母は母で葛藤していた。
「母さん」
そう口を開いた瞬間、母の背後に銀色の光が見えた。
---めんこい
誰だ? 誰の声なんだ。
薄っすら声の主の輪郭が浮き上がってきた。顔に何かの面をつけている。鰐?学級裁判の一件で、精神が? 脳味噌の一部が? 壊れてしまったのだろうか。思い出そうと躍起になると、頭が割れそうなほどの激しい痛みに襲われた。とっさに両手で頭を抑える。
「どうしたの? 痛みがでてきたの?」
母がナースコールのボタンを探していたので、慌ててそれを遮った。
銀色の影はもう見えない。頭を抑えながら言う。
「いざとなれば、父さんも、連絡をくれた友人もいるから大丈夫。大丈夫だから。来週、例大祭があるんだ。大事な学校行事。みんなで協力して成し遂げたいんだ。それが終わったら、僕も帰るから。それまではこの町にいさせて欲しい」
母には避難しろと言っておきながら、矛盾しているとは思う。親の立場なら僕の我儘を受け入れることはできないかもしれない。
それでも、謎だらけのこの町から何も掴めぬまま離れるつもりは毛頭なかった。
「絶対に無理はしないって、約束するから」
一縷の望みにかけて念を押した。
心の中を見透かされないよう努めたが、母は言葉の真意を探っているのか、僕の顔を見ながらしばらく黙っていた。
「わかったわ。お父さんには私から話しておくから。でも、二学期からはもとの中学に戻りましょう」
母が口にした『二学期』とやらが、遠い遠い未来に思えた。
数日分の着替えやタオルを置いて、母は病室をあとにした。
気を強く持たなければ。
母の残像を見つめながら自分自身に言い聞かせた。
やらなければならないことは山ほどあった。
幸い尻ポケットに黒い携帯と財布は入ったままだった。
携帯の表面に入った亀裂を指でなぞってから、ロックを解除する。
携帯の着信履歴を確認すると、父と母の他に非通知が一件。
ひとまず、病院の外で電話をかけることにした。
病院を出てすぐ右手の木陰に入った。
通話音が四回。
「もしもし」
「いま、話せるか?」
「……ああ」
「僕の家族に連絡を入れてくれたのは、おまえだな?」
少しの間があった。
何かを喉に流し込む音がした。
「生徒会長に頼まれた」
「生徒会長?」
「ああ。5番が、学校に入っていくのを見たとメールが来た。その後、担任のキツネザビの姿も。嫌な予感がすると。これから自分は用事があるから、代わりに様子を見て来て欲しいとも。お弁当三日分作るから頼むって」
黄賀エリカの配慮だったとは計算外だったが、素直に嬉しかった。
「で、兵頭。心当たりがあって学校に来たんだな?」
五分間、何の返事もなかったので切れてしまったのかと携帯画面を見て確認してしまった。
「俺が教室に入った時には、すでに5番はひとりで倒れていた。とにかく無事で良かった」
「ああ。命を救われたよ。聞きたいことは無数にあるけど、これでチャラにしてやる。例大祭、楽しもうな」
「ああ。当たり前だ」
「じゃ、またな」
「あ、待ってくれ」
「なんだ?」
「丹司、早く退院しろよ。じゃあな」
初めて僕の名前を呼ぶ兵頭の声は優しかった。兵頭がキツネザビの共犯者だとは思っていなかったが、心のわだかまりが少しだけ解けた。
思えば、最後に僕の手を握ってくれたのは誰か。
---母さんだ
手の甲に浮き出た血管や皮膚の感触もソックリだ。
おもむろに目を開けると、母が目に涙をためて見下ろしていた。
僕を見ている母を久しぶりに見た気がする。
「ごめん。心配かけて」
母は、何度か口を開けては話しだそうとするものの、うまく言い出せない様子だった。
そのうち、看護師が入ってきて僕の容態を確認する。
ここは芽八市立病院。
どうやら僕は、丸二十六時間も昏睡状態に陥っていたらしい。腹部に毒針が刺さっていたので、それを吸いだし消毒したとのこと。
思わず、「毒針ってなんですか?」と質問。
「アナフィラキシーショックを発症していたのです。蜂に刺されたのでしょう。あと五分でも遅ければ、命を落としていたかもしれませんよ」
「蜂に?」
頭が真っ白になった。
気を失う直前、自分がどこにいたのかを必死に思い出す。
山? 森? 違う、学校だ。
そうだ、キツネザビの一味なのかわからないが、元生徒会メンバーとやらに、正気の沙汰とは思えないことをされたのだ。
虚ろな目の元生徒会メンバー四人がいっせいに飛びかかってきた時、背後から太い尾のようなものが伸びてきた。あまりに一瞬のことだったので、それが何かは分からなかったが、気づくと腹部に猛烈な痛みが走っていた。
正直、今すぐにでも警察に電話してキツネザビが犯した罪について告発したかったが、反面、見知らぬ大人と話すのを避けたい気持ちもあった。認めたくはないが、あの教室である種の恐怖を植えつけられたことは紛れもない事実だった。
「最低でもあと二日はここで安静にしていて下さい」
看護師の対応はあまりにも素っ気なかった。命に別条がないと決まればこんなものなのかもしれないが。
ムスッとした自分の態度とは対照的に、お人好しの母は礼を述べて看護師を見送った。
「マサヤ伯父さんから聞いたよ。芽八市へ引っ越すことを、親戚中が反対してたんだって? 母さんは、いつも父さんがやりたいことに従うけど、今回の引っ越しについては正直どう思ってるの?」
母だけを咎めるつもりはなかったが、自責の念に駆られてか、目の前で深く俯いてしまった。
「そうね。確かに止められたわ。ただ、丹司も知っていると思うけど。マサヤ伯父さん以外は、中学しかでていなかったり、倒産していたり、ギャンブルで面倒を起こしたりで、お父さんの仕事に対してもともと快く思っていない人たちなのよ。善意から引き留めてくれたとは思えなかった。でもね、鬼月の伯父さんが亡くなる数時間前に、家の電話に留守電メッセージが入っていたの」
母の目に暗い影が指した。
「伯父さん、なんて?」
「これを聞いて欲しいの」
そう言ってショルダーバッグから取りだした携帯を、僕の耳元にあてた。
「鬼月雅也です。電車に乗っています。時間がないので挨拶は省きます。丹司くんの携帯だけでは不安なので、こちらにもメッセージを残しておきます。信じがたい話かもしれませんが、僕も普段真顔でこんな戯言はいいません。それを踏まえて聞いてもらいたいのです。電車で西芽八に向かう途中、耳元でブンブン蜂が飛び回るような雑音がして気持ち悪くなりました。でも、近くで蜂は飛んでいないのです。車両を変えると、その音はいったんおさまったのですが、今度は奇妙な声が頭上から聞こえてきたのです。ヨソモノカエレ、ヨソモノミナゴロシと。因みに移った車両には、腕を組んで寝ている坊主と、寄り添って眠る男女のカップルだけ。気味が悪くなって次の駅で降りたんです。そのうちまた体調が良くなってきたので、二台くらい見送ってから西芽八行きの電車に再び乗ったんです。つい、五分前のことです。そしたらまた、聞こえてきたんです。いや、いまも聞こえているんです。物騒な言葉が……。単なる幻聴だとは思うのですが、ふと、浩司くんのことをお」
不吉な余韻を残し、話の途中で切れた。
意味するところを説明して欲しいとせがむような視線を母に送る。
「亡くなった日の朝、家の留守電に入っていたの」
「やっぱり、ただの事故ではないな」
一連の怪奇な出来事に関連性はあるだろうか。
最後に言いかけたセリフも気になった。
「丹司の同級生から連絡があった時、生きた心地がしなかったわ。学校で作業中に怪我をしたって聞いたから、浩司に次いで丹司まで奪われてしまうんじゃないかって。そういう意味では、お父さんと一緒に芽八へきたことは後悔してるわね」
「待って!」
勢いよく前のめりになった。
「僕がここにいるって誰が連絡してきたの?」
「わからないわ」
「着信時に番号は表示されてた?」
「非通知だったわ」
もしかすると、その電話をかけてきた人が僕を病院へ連れてきたのではないかと推察する。あの場で、キツネザビが救急車を呼ぶとは思えない。
「声の特徴とか、口癖とか何でもいいから覚えてることを教えて欲しいんだけど」
母は、右手を頬に当てながら小首を傾げた。
「うんと低い声だった?」
「それはないわね。慌てていただけかもしれないけど、比較的早口だったわね。あと、最後に、すんません、俺のせいでって言ってたわ……」
低音ボイスの相沢は選択肢から消えた。兵頭と石井はどちらも一人称は俺だが、早口となると兵頭の可能性が高い。
……俺のせいで、俺のせいで……。
思い当たることがないわけではなかった。あくまでも推測に過ぎないが、学級裁判の前日。電波塔で兵頭といる時、彼に電話がかかってきた。その時の着信相手がキツネザビ、またはその一味だとしたら? あの日、兵頭は半ば脅されていたようにも見受けられた。僕から遠ざかるように電話をしていたのも気がかりだった。さらに、兵頭の口ぶりからして自分より目上の者であったはず。
僕の知らないところで、いや、もしかすると僕を含めた生徒たちの知らないところで大きな陰謀が働いているのかもしれない。
本当の黒幕は教師の岡林ではない気がした。
顔を上げると、さんざん詰問しておきながら急に閉口した僕を母は心もとなげに見つめていた。
「学校でどんな作業をしたのか、そこまでは聞いていない?」
「聞いてないけど……。クラスメイトの人たちとじゃないの?」
敢えてここで恐怖の体験の全容を口にはしなかった。
「……母さんは、実家に避難した方が良いよ」
「え?」
ベッドは白いカーテンで覆われていたが、誰が盗み聞きしていてもおかしくない。
僕は母を手招くと耳元でこうささやいた。
「心配させたくないんだけど、僕は狙われている。ここからは、直感でしかないけど、おそらくマサヤ伯父さんを死に追い込んだ者と同じだと思う。僕と会うことになっていたのは、この芽八市に対してふたりとも疑問を持っていたからなんだ。詳しく話すと長くなるけど、僕とマサヤ伯父さんはこの町にとって目の上のたんこぶなんだと思う」
母の目は怯えていたが、息子の言葉を一言一句、真剣に聞いてくれた。
「だから、できるだけ早く実家に身を隠した方が賢明だと思う。父さんの帰りが早ければ良いんだけど、日に日に帰宅時間は遅くなってるし……」
父の話題を自ら出してはみたものの、学級裁判前日に喧嘩したっきりだった。
今頃は、鬼畜教師に肩を持ったことを後悔しているだろう。そう願いたい。
「鬼月の伯父さんの死の原因究明については、お母さんもできるかぎり探ってみるわ」
母が強い意志を持って話すのは珍しかった。普段は強い意見を持たない。ましてや、それを押し通そうという気概もない母。たとえ芽八市に対する反感を持とうとも、誰かにその気持ちが知られる機会は僕より少ないだろう。弟が亡くなってからは、ほとんど誰とも付き合わなくなり、家を出るのは買い物くらいだった。
それでも、マサヤ伯父さんや僕たちと同じ側にいる母が安全とは思わない。
「でも、やっぱり丹司を置いてはいけないわ」
母は母で葛藤していた。
「母さん」
そう口を開いた瞬間、母の背後に銀色の光が見えた。
---めんこい
誰だ? 誰の声なんだ。
薄っすら声の主の輪郭が浮き上がってきた。顔に何かの面をつけている。鰐?学級裁判の一件で、精神が? 脳味噌の一部が? 壊れてしまったのだろうか。思い出そうと躍起になると、頭が割れそうなほどの激しい痛みに襲われた。とっさに両手で頭を抑える。
「どうしたの? 痛みがでてきたの?」
母がナースコールのボタンを探していたので、慌ててそれを遮った。
銀色の影はもう見えない。頭を抑えながら言う。
「いざとなれば、父さんも、連絡をくれた友人もいるから大丈夫。大丈夫だから。来週、例大祭があるんだ。大事な学校行事。みんなで協力して成し遂げたいんだ。それが終わったら、僕も帰るから。それまではこの町にいさせて欲しい」
母には避難しろと言っておきながら、矛盾しているとは思う。親の立場なら僕の我儘を受け入れることはできないかもしれない。
それでも、謎だらけのこの町から何も掴めぬまま離れるつもりは毛頭なかった。
「絶対に無理はしないって、約束するから」
一縷の望みにかけて念を押した。
心の中を見透かされないよう努めたが、母は言葉の真意を探っているのか、僕の顔を見ながらしばらく黙っていた。
「わかったわ。お父さんには私から話しておくから。でも、二学期からはもとの中学に戻りましょう」
母が口にした『二学期』とやらが、遠い遠い未来に思えた。
数日分の着替えやタオルを置いて、母は病室をあとにした。
気を強く持たなければ。
母の残像を見つめながら自分自身に言い聞かせた。
やらなければならないことは山ほどあった。
幸い尻ポケットに黒い携帯と財布は入ったままだった。
携帯の表面に入った亀裂を指でなぞってから、ロックを解除する。
携帯の着信履歴を確認すると、父と母の他に非通知が一件。
ひとまず、病院の外で電話をかけることにした。
病院を出てすぐ右手の木陰に入った。
通話音が四回。
「もしもし」
「いま、話せるか?」
「……ああ」
「僕の家族に連絡を入れてくれたのは、おまえだな?」
少しの間があった。
何かを喉に流し込む音がした。
「生徒会長に頼まれた」
「生徒会長?」
「ああ。5番が、学校に入っていくのを見たとメールが来た。その後、担任のキツネザビの姿も。嫌な予感がすると。これから自分は用事があるから、代わりに様子を見て来て欲しいとも。お弁当三日分作るから頼むって」
黄賀エリカの配慮だったとは計算外だったが、素直に嬉しかった。
「で、兵頭。心当たりがあって学校に来たんだな?」
五分間、何の返事もなかったので切れてしまったのかと携帯画面を見て確認してしまった。
「俺が教室に入った時には、すでに5番はひとりで倒れていた。とにかく無事で良かった」
「ああ。命を救われたよ。聞きたいことは無数にあるけど、これでチャラにしてやる。例大祭、楽しもうな」
「ああ。当たり前だ」
「じゃ、またな」
「あ、待ってくれ」
「なんだ?」
「丹司、早く退院しろよ。じゃあな」
初めて僕の名前を呼ぶ兵頭の声は優しかった。兵頭がキツネザビの共犯者だとは思っていなかったが、心のわだかまりが少しだけ解けた。