22、相沢邸
文字数 5,390文字
約束通りの時間に集合できた。
兵頭と石井は、黒にサイドが黄色の二本線が入った芽八中指定のジャージを着用して登場。胸元には、芽八市の住人ならば誰もが知っている、ハニカムの中に蜂が羽を広げたデザインの校章入りだ。
二人そろってジャージ姿なので、
「ジャージ着用っていう決まりでもあるの?」
と念のため確認したが、「ない」と即答の兵頭。石井は、勝手に兵頭の真似をしているだけだった。
メバチ商店街を出てすぐ角に堂々と立つ相沢邸は、今日も陽光に照らされて金ぴかを保持していた。
「この家売ったら、どんだけたこ焼きが食えるんだろうな」
「もっと、でっかいこと言えないのかよ、石井ちゃん!」
兵頭が横からまともなツッコミを入れる。
「豊臣秀吉もびっくりだね」
「トヨトミ? なんで?」
兵頭の疑問には苦笑を返す。
入口の扉まで金ぴかの豪邸に入ると金歯を揃えた母上が出迎える、なんてことはさすがになかったが、厚化粧をした福々しい家政婦さんが出てきた。しかも、家の中にエレベーターがあり、四人一緒に乗ることができた。たかだか三階までの移動にエレベーターとは、相沢邸おそるべし。
ところが、予想に反して相沢の部屋は狭かった。
「今日は作業がメインだし、倉庫でもいい?」
そう、相沢の部屋と断定するには早計だった。
倉庫だと言い切った部屋は六畳ほどで、自分の部屋より広かった。
模造紙やガムテープ、油性ペンにハサミなど、文房具の品揃えはもとより、技術室にしか普通ないような珍しい工具まですべて並んでいた。
「早速だが、石井ちゃんはボランティアの名札を作る、相沢はゴミ出しマナーのチラシ作りと生徒会長が作った当日の予定表に漏れがないか再チェック、俺は奉納者一覧を書く『花板』作り。5番は、相沢の……」
「僕に言わせてもらっていい?」
相沢が床にブルーシートを敷きながら、いつもダンディーボイスで主張した。
「僕の父が世界に誇る筆商品を販売する予定なんだ。それをひとつひとつ、丁寧にだ、丁寧にだぞ? ラッピングしてもらいたい。兵頭から、この中で物を一番大切にできると聞いている。頼んだよ」
兵頭の顔を見ると、バツが悪いのか視線を逸らされた。長所を見つけてもらえるだけでなく、認めてもらえるのは素直に嬉しかった。しかし、兵頭がそんなことを陰で言っていたとは。
作業開始直前、家政婦さんが人数分のジュースを運んできた。
むろんただのジュースでないところが相沢家だ。酵素ジュースと言うのだからたまげてしまう。アセロラのようにすっきりとした喉越しで、すぐにおかわりを頂いてしまった。石井に限っては最初からメガサイズのグラスが渡されていて笑ってしまった。
その後、すぐに作業に取り掛かった。
途中、兵頭が携帯を取り出して相沢のコンポと繋ぎBGMを流した。意表をついてエキゾチックなメロディに野太い女性の歌声が響き渡る。しかも英語ではなく、シナナイシナナイと、妙なトルコ語の歌詞ときた。
なぜ選曲がトルコ音楽になったのかを訊くと、みんなの音楽の好みが三者三様で昨年はBGM戦争となったため、中立的なジャンルを模索した結果がコレだと言う。
ふと、相沢が鼻を高くして語る自慢の筆をまじまじと見た。
僕が詰めていたものは筆ペンではなく、女性がよく化粧で使うブラシだ。周囲の目を盗み、筆先が広がらないようまとめてある薄紙をそっと剥がした。直接触れてみると、銀色と白が混ざったような色合いで非情に柔らかい。
ふと、兵頭があくびをしながら両腕を伸ばし、こちらに身体を向けてきたので慌てて薄紙の位置を戻した。
「これは、ウィッグとかカツラにしても良さそうだよね」
作業をしながら僕がぼそっとつぶやく。
そのとたん、兵頭と石井がムンクの叫びを具現化したようなリアクションをとった。
「高級ウィッグやカツラは、もちろん販売してるよ。まだお得意様限定の商品だけどね」
相沢がどや顔で答えた。
「相沢くんのお父さんとかはやっぱり高級な自社製品のカツラとかしてたりるの?」
「おい馬鹿、何言ってんの」と、横で兵頭が口をパクパクさせて言う。なにかまずいことを口にしてしまったのだろうかと僕は目を瞬(しばたた)いた。
「鬼月くんって、結構、無神経なんだな」
相沢の目の色が変わった。
さすがの僕でも、彼の父親の髪が薄いという事実を踏んで話題を強引に変えた。
「ト、トルコと言えばさ、みんなは海外旅行とか行ったことあるの?」
相沢は挽回するように力強く当然だろうと言った態度でうなづくも、他のふたりは「ねえよ」「美味しい食べ物がある国には行きたいなぁ」と自由な解答。
「芽八生まれの芽八育ちなの?」
「そーだな」
兵頭が、かったるそうに、いや、わざとかったるそうに答えた。
「中学を卒業したら、みんなはどこの高校に進学するの?」
「進学? しねーよ。そんなもん」
「相沢くんは?」
折りたたみ式のテーブルの上で作業をしていた相沢の眼鏡が光った。
「神のみぞ知る、ってとこだね」
当然、進学校への進路か留学でもするのかと踏んでいただけに驚きを隠せなかった。
「相沢くんほどの人が高校へ行くかどうかわからないってこと?」
「余所者には一生かかっても、理解できないだろうな」
明らかに侮蔑する言い方だった。
「そうだね、キミのように貴族のような生活をしている人の進路は皆目見当もつかないね」
「おやおや、鬼月くんの家も医師の家系だろう? 親父さんだけでなく、祖父も医師だったと聞くよ。キミも医学部に進むのかい? なんなら、動物の死体を解剖する、知り合いの動物生態学者が経営する団体を教えてやってもいいよ。きっと役に立つだろうね」
今日の相沢は饒舌だった。
「僕のことがよほど好きなんだな。祖父のことまで持ち出すとはね」
売り言葉に買い言葉。
言葉の応酬は止まらない。
兵頭が「おいおい、やめたまえ喧嘩は……」と珍しく仲裁に入る。
「医学には限界がある。触れることのできない命の領域がある。鬼月くんには、わかるか?」
相沢は捨て台詞を残して部屋を出た。
ドアが閉まっているのを確認すると、兵頭は頭をボリボリ掻きながら言った。
「本当は、あいつも医学部に進みたいんだよ」
僕は顔を上げる。
慣れた手つきで板に鉛筆でなぞった部分を糸のこで切断しながら兵頭は続けた。
「じゃあ、なぜ行かないの? その決意を阻む理由なんてないだろう?」
「確かに、ここの家は医学部に二人や三人ほいほい進学させられるだけの経済力はあるぜ? だがな、何事にも優先順位と言うものがあるのだよ、5番。そう、医学部への道は、優先すべき進路ではないのだ。わかったかぁ?」
「わからないよ」
僕は素直に答えた。
「じゃあ、優先すべきことって?」
兵頭と石井は顔を見合わせてそのまま閉口してしまった。
そこで、ドアが勢いよく開かれた。
どこまで聞かれていたかはわからないが、その後の作業には支障を来たすことはなかった。
四時過ぎにインターホンが鳴るまで、僕は黙々と透明のラッピング袋に筆を詰めた。
階段をドンドン上ってくる足音がしたと思ったら、倉庫部屋のドアが派手に開かれた。
「おまえたち、差し入れ持って来てやったぞ!」
どこまで自分たちの通う中学を愛しているのか。黄賀エリカもまた制服姿だった。長い金髪を大きく揺らしながらドスンと中央に座った。
「いよ! 待ってました、会長!」
兵頭の歓喜の声に次いで、石井が嬉々と立ち上がる。制服のスカートのままあぐらをかくものだから僕は目のやり場に困ったが、周りは風呂敷に包まれた四段弁当にしか目がないようだった。
それぞれ一段ずつ配られた。
どのお弁当にもかやくごはんは入っていたが、おかずの組み合わせは各々異なっている凝りようだ。
僕に配られたお弁当は、ほうれん草と茹で卵のニース風サラダ、海老とブロッコリーの炒め物、ピーマンの肉詰めと塩トマトのオリーブオイル和えだ。
すぐに箸をつける三人とは違って、しばらくおかずを眺めている僕に不審を抱いたのか黄賀エリカが 「どうした?」と動向を探ってきた。
「このピーマンの肉詰め、小さく切ったエノキも入ってるね」
「あ、ああ」
「料理は僕も時々するんだ。だから、いろいろ気になっちゃって。このニース風サラダのドレッシングも手作り?」
「そうだ。食ってみろ」
「いただきます」
両手を合わせてから箸をつけた。
どれも見た目の美しさに負けないほど美味だった。
「濃すぎず薄すぎず。絶妙だね」
「食う時は、黙って食え」
口ではつんけんしていたが、手放しの誉め言葉に生徒会長エリカは頬を紅潮させていた。
「そういえば、兄者……またの名を黄賀悪魔が芽八に帰ってきたんだが」
何の前触れもなくエリカがその名を口にしたとたん、場の空気が凍り付いた。兵頭、石井、相沢は、無言で互いの目を見て恐怖を共有している。
そこで代わりに無知の僕が「兄者って?」と質問すると、三人の目はもっと恐怖におののいた。
「双子の兄だ。半年前に交換留学でカナダへ行っていたのだが、戻ってきたのだよ」
「へぇ。やっぱりお兄さんも仕切りたがり屋なの?」
「少年! おまえ、ぬけぬけと。だが、仕切りたがりではないだろう」
細いあごに手をあてて思い出したように彼女は言った。しかし、すぐに兵頭はぶるぶる首を振りながら、
「いいやいやいやいや、思い通りにいかないと気が済まないタイプだろう」
と言い直した。
「隣町の中学のヤンキー、ひとりで締め上げたことあるって聞いたことあるけど……」
隣で石井も表情を硬くして話す。
「結構な問題児の匂いがするけど……まさか、同じクラスではないよね?」
「兄者は、先生の助言で三年生のクラスに入ったのだ」
「先生の助言って何?」
「三年生はひとクラスの人数が少ないから、教師的には手に余る生徒の生活指導を行いやすいからなんじゃないかぁ?」
その答えで、三人が子羊のように震えているのも頷けてしまった。とにかく関わらない方が良さそうだ。
その後、部活の練習があると言って兵頭と石井は先に帰った。
黄賀エリカは、裏生徒会が作ったものを丹念にチェックしていたが、やがて空き箱を包み始めた。
「じゃあ、そろそろ帰るよ」
「僕も帰ろうかな」
相沢とふたりっきりになることだけは避けたかった。事実、あの軽い口論から相沢は目も合わせようとはしなかった。
一階で靴を履いて立ち上がった時だった。
ズボンのポケットから薬が落ちた。
昨日、右京ほたるが落とした薬に違いなかった。三人の視線が同じ場所に集まる。僕が拾おうとするよりも先に、なぜか黄賀エリカが先に拾い上げた。
「おっと、落としちゃった」
そう言って自分の懐にしまった。
「じゃ、またな!」
軽やかに手を挙げると、彼女は僕の背中を押し出すようにして玄関を出た。
ちょうど青に切り替わった横断歩道を渡ったところで、黄賀エリカが事情を話始めた。
「少年、なんでおまえが女子だけが服用する薬を持っている? 盗んだのか?」
「盗む?」
声が裏返った。
「違うよ。昨日、たまたま会った右京さんが落としたもので、渡そうと思ってたんだ」
「じゃあ、なぜその場で昨日返さなかったのだ?」
「それは……」
うまく説明できる気がしなかった。必死に言い繕うとすればするほど逆効果な気がした。
「僕が盗んで何の得があるって言うの? せい……」
そこで、生理痛の三文字を口にするのは思春期の男にとって躊躇われたので言い直した。
「鎮痛剤なんて、男だって服むやついるよ」
しまった。これでは、盗んだと言っているようなものだ。
「いいか? 私の前でヘマするならまだしも、相沢の前では気をつけろ。あいつの母親は、PTAの会長だし、担任の岡林とも父親ぐるみで仲が良い。真意は測りかねるが、前にも言った通り、何かしら事件が起きた時、転校生のおまえは不利な立場に立たされやすい。気をつけろ、少年。とりあえずこの薬は私からほたるに渡しておく」
「待ってくれよ。俺が盗んだと思っているのか?」
高いヒールで先を歩く生徒会長の右手を思わず掴んでしまった。
「触れるなっ!」
後には引けず、その手を拘束したまま「頼むから、聞いてくれ」と叫んだ。
「やめろっ!」
その叫び声に周囲の通行人が足を止めた。
「最近の中学生は」「女の子が嫌だって言ってるのにねぇ」「強引な男の子ね」
あらゆる方向から僕を非難する声が囁かれる。
やむを得ず手を離した。
「米粒ひとつ残さず食べるやつに悪いやつはいない。それくらいのことは知っている」
肩越しに僕を見る目はどこか愁いを帯びていた。理不尽に自分を敵視しているわけではないのだと知って、力強く手首を握りしめてしまったことを猛省した。情けなくて、しばらくは横断歩道の前で身動き取れずにいた。
兵頭と石井は、黒にサイドが黄色の二本線が入った芽八中指定のジャージを着用して登場。胸元には、芽八市の住人ならば誰もが知っている、ハニカムの中に蜂が羽を広げたデザインの校章入りだ。
二人そろってジャージ姿なので、
「ジャージ着用っていう決まりでもあるの?」
と念のため確認したが、「ない」と即答の兵頭。石井は、勝手に兵頭の真似をしているだけだった。
メバチ商店街を出てすぐ角に堂々と立つ相沢邸は、今日も陽光に照らされて金ぴかを保持していた。
「この家売ったら、どんだけたこ焼きが食えるんだろうな」
「もっと、でっかいこと言えないのかよ、石井ちゃん!」
兵頭が横からまともなツッコミを入れる。
「豊臣秀吉もびっくりだね」
「トヨトミ? なんで?」
兵頭の疑問には苦笑を返す。
入口の扉まで金ぴかの豪邸に入ると金歯を揃えた母上が出迎える、なんてことはさすがになかったが、厚化粧をした福々しい家政婦さんが出てきた。しかも、家の中にエレベーターがあり、四人一緒に乗ることができた。たかだか三階までの移動にエレベーターとは、相沢邸おそるべし。
ところが、予想に反して相沢の部屋は狭かった。
「今日は作業がメインだし、倉庫でもいい?」
そう、相沢の部屋と断定するには早計だった。
倉庫だと言い切った部屋は六畳ほどで、自分の部屋より広かった。
模造紙やガムテープ、油性ペンにハサミなど、文房具の品揃えはもとより、技術室にしか普通ないような珍しい工具まですべて並んでいた。
「早速だが、石井ちゃんはボランティアの名札を作る、相沢はゴミ出しマナーのチラシ作りと生徒会長が作った当日の予定表に漏れがないか再チェック、俺は奉納者一覧を書く『花板』作り。5番は、相沢の……」
「僕に言わせてもらっていい?」
相沢が床にブルーシートを敷きながら、いつもダンディーボイスで主張した。
「僕の父が世界に誇る筆商品を販売する予定なんだ。それをひとつひとつ、丁寧にだ、丁寧にだぞ? ラッピングしてもらいたい。兵頭から、この中で物を一番大切にできると聞いている。頼んだよ」
兵頭の顔を見ると、バツが悪いのか視線を逸らされた。長所を見つけてもらえるだけでなく、認めてもらえるのは素直に嬉しかった。しかし、兵頭がそんなことを陰で言っていたとは。
作業開始直前、家政婦さんが人数分のジュースを運んできた。
むろんただのジュースでないところが相沢家だ。酵素ジュースと言うのだからたまげてしまう。アセロラのようにすっきりとした喉越しで、すぐにおかわりを頂いてしまった。石井に限っては最初からメガサイズのグラスが渡されていて笑ってしまった。
その後、すぐに作業に取り掛かった。
途中、兵頭が携帯を取り出して相沢のコンポと繋ぎBGMを流した。意表をついてエキゾチックなメロディに野太い女性の歌声が響き渡る。しかも英語ではなく、シナナイシナナイと、妙なトルコ語の歌詞ときた。
なぜ選曲がトルコ音楽になったのかを訊くと、みんなの音楽の好みが三者三様で昨年はBGM戦争となったため、中立的なジャンルを模索した結果がコレだと言う。
ふと、相沢が鼻を高くして語る自慢の筆をまじまじと見た。
僕が詰めていたものは筆ペンではなく、女性がよく化粧で使うブラシだ。周囲の目を盗み、筆先が広がらないようまとめてある薄紙をそっと剥がした。直接触れてみると、銀色と白が混ざったような色合いで非情に柔らかい。
ふと、兵頭があくびをしながら両腕を伸ばし、こちらに身体を向けてきたので慌てて薄紙の位置を戻した。
「これは、ウィッグとかカツラにしても良さそうだよね」
作業をしながら僕がぼそっとつぶやく。
そのとたん、兵頭と石井がムンクの叫びを具現化したようなリアクションをとった。
「高級ウィッグやカツラは、もちろん販売してるよ。まだお得意様限定の商品だけどね」
相沢がどや顔で答えた。
「相沢くんのお父さんとかはやっぱり高級な自社製品のカツラとかしてたりるの?」
「おい馬鹿、何言ってんの」と、横で兵頭が口をパクパクさせて言う。なにかまずいことを口にしてしまったのだろうかと僕は目を瞬(しばたた)いた。
「鬼月くんって、結構、無神経なんだな」
相沢の目の色が変わった。
さすがの僕でも、彼の父親の髪が薄いという事実を踏んで話題を強引に変えた。
「ト、トルコと言えばさ、みんなは海外旅行とか行ったことあるの?」
相沢は挽回するように力強く当然だろうと言った態度でうなづくも、他のふたりは「ねえよ」「美味しい食べ物がある国には行きたいなぁ」と自由な解答。
「芽八生まれの芽八育ちなの?」
「そーだな」
兵頭が、かったるそうに、いや、わざとかったるそうに答えた。
「中学を卒業したら、みんなはどこの高校に進学するの?」
「進学? しねーよ。そんなもん」
「相沢くんは?」
折りたたみ式のテーブルの上で作業をしていた相沢の眼鏡が光った。
「神のみぞ知る、ってとこだね」
当然、進学校への進路か留学でもするのかと踏んでいただけに驚きを隠せなかった。
「相沢くんほどの人が高校へ行くかどうかわからないってこと?」
「余所者には一生かかっても、理解できないだろうな」
明らかに侮蔑する言い方だった。
「そうだね、キミのように貴族のような生活をしている人の進路は皆目見当もつかないね」
「おやおや、鬼月くんの家も医師の家系だろう? 親父さんだけでなく、祖父も医師だったと聞くよ。キミも医学部に進むのかい? なんなら、動物の死体を解剖する、知り合いの動物生態学者が経営する団体を教えてやってもいいよ。きっと役に立つだろうね」
今日の相沢は饒舌だった。
「僕のことがよほど好きなんだな。祖父のことまで持ち出すとはね」
売り言葉に買い言葉。
言葉の応酬は止まらない。
兵頭が「おいおい、やめたまえ喧嘩は……」と珍しく仲裁に入る。
「医学には限界がある。触れることのできない命の領域がある。鬼月くんには、わかるか?」
相沢は捨て台詞を残して部屋を出た。
ドアが閉まっているのを確認すると、兵頭は頭をボリボリ掻きながら言った。
「本当は、あいつも医学部に進みたいんだよ」
僕は顔を上げる。
慣れた手つきで板に鉛筆でなぞった部分を糸のこで切断しながら兵頭は続けた。
「じゃあ、なぜ行かないの? その決意を阻む理由なんてないだろう?」
「確かに、ここの家は医学部に二人や三人ほいほい進学させられるだけの経済力はあるぜ? だがな、何事にも優先順位と言うものがあるのだよ、5番。そう、医学部への道は、優先すべき進路ではないのだ。わかったかぁ?」
「わからないよ」
僕は素直に答えた。
「じゃあ、優先すべきことって?」
兵頭と石井は顔を見合わせてそのまま閉口してしまった。
そこで、ドアが勢いよく開かれた。
どこまで聞かれていたかはわからないが、その後の作業には支障を来たすことはなかった。
四時過ぎにインターホンが鳴るまで、僕は黙々と透明のラッピング袋に筆を詰めた。
階段をドンドン上ってくる足音がしたと思ったら、倉庫部屋のドアが派手に開かれた。
「おまえたち、差し入れ持って来てやったぞ!」
どこまで自分たちの通う中学を愛しているのか。黄賀エリカもまた制服姿だった。長い金髪を大きく揺らしながらドスンと中央に座った。
「いよ! 待ってました、会長!」
兵頭の歓喜の声に次いで、石井が嬉々と立ち上がる。制服のスカートのままあぐらをかくものだから僕は目のやり場に困ったが、周りは風呂敷に包まれた四段弁当にしか目がないようだった。
それぞれ一段ずつ配られた。
どのお弁当にもかやくごはんは入っていたが、おかずの組み合わせは各々異なっている凝りようだ。
僕に配られたお弁当は、ほうれん草と茹で卵のニース風サラダ、海老とブロッコリーの炒め物、ピーマンの肉詰めと塩トマトのオリーブオイル和えだ。
すぐに箸をつける三人とは違って、しばらくおかずを眺めている僕に不審を抱いたのか黄賀エリカが 「どうした?」と動向を探ってきた。
「このピーマンの肉詰め、小さく切ったエノキも入ってるね」
「あ、ああ」
「料理は僕も時々するんだ。だから、いろいろ気になっちゃって。このニース風サラダのドレッシングも手作り?」
「そうだ。食ってみろ」
「いただきます」
両手を合わせてから箸をつけた。
どれも見た目の美しさに負けないほど美味だった。
「濃すぎず薄すぎず。絶妙だね」
「食う時は、黙って食え」
口ではつんけんしていたが、手放しの誉め言葉に生徒会長エリカは頬を紅潮させていた。
「そういえば、兄者……またの名を黄賀悪魔が芽八に帰ってきたんだが」
何の前触れもなくエリカがその名を口にしたとたん、場の空気が凍り付いた。兵頭、石井、相沢は、無言で互いの目を見て恐怖を共有している。
そこで代わりに無知の僕が「兄者って?」と質問すると、三人の目はもっと恐怖におののいた。
「双子の兄だ。半年前に交換留学でカナダへ行っていたのだが、戻ってきたのだよ」
「へぇ。やっぱりお兄さんも仕切りたがり屋なの?」
「少年! おまえ、ぬけぬけと。だが、仕切りたがりではないだろう」
細いあごに手をあてて思い出したように彼女は言った。しかし、すぐに兵頭はぶるぶる首を振りながら、
「いいやいやいやいや、思い通りにいかないと気が済まないタイプだろう」
と言い直した。
「隣町の中学のヤンキー、ひとりで締め上げたことあるって聞いたことあるけど……」
隣で石井も表情を硬くして話す。
「結構な問題児の匂いがするけど……まさか、同じクラスではないよね?」
「兄者は、先生の助言で三年生のクラスに入ったのだ」
「先生の助言って何?」
「三年生はひとクラスの人数が少ないから、教師的には手に余る生徒の生活指導を行いやすいからなんじゃないかぁ?」
その答えで、三人が子羊のように震えているのも頷けてしまった。とにかく関わらない方が良さそうだ。
その後、部活の練習があると言って兵頭と石井は先に帰った。
黄賀エリカは、裏生徒会が作ったものを丹念にチェックしていたが、やがて空き箱を包み始めた。
「じゃあ、そろそろ帰るよ」
「僕も帰ろうかな」
相沢とふたりっきりになることだけは避けたかった。事実、あの軽い口論から相沢は目も合わせようとはしなかった。
一階で靴を履いて立ち上がった時だった。
ズボンのポケットから薬が落ちた。
昨日、右京ほたるが落とした薬に違いなかった。三人の視線が同じ場所に集まる。僕が拾おうとするよりも先に、なぜか黄賀エリカが先に拾い上げた。
「おっと、落としちゃった」
そう言って自分の懐にしまった。
「じゃ、またな!」
軽やかに手を挙げると、彼女は僕の背中を押し出すようにして玄関を出た。
ちょうど青に切り替わった横断歩道を渡ったところで、黄賀エリカが事情を話始めた。
「少年、なんでおまえが女子だけが服用する薬を持っている? 盗んだのか?」
「盗む?」
声が裏返った。
「違うよ。昨日、たまたま会った右京さんが落としたもので、渡そうと思ってたんだ」
「じゃあ、なぜその場で昨日返さなかったのだ?」
「それは……」
うまく説明できる気がしなかった。必死に言い繕うとすればするほど逆効果な気がした。
「僕が盗んで何の得があるって言うの? せい……」
そこで、生理痛の三文字を口にするのは思春期の男にとって躊躇われたので言い直した。
「鎮痛剤なんて、男だって服むやついるよ」
しまった。これでは、盗んだと言っているようなものだ。
「いいか? 私の前でヘマするならまだしも、相沢の前では気をつけろ。あいつの母親は、PTAの会長だし、担任の岡林とも父親ぐるみで仲が良い。真意は測りかねるが、前にも言った通り、何かしら事件が起きた時、転校生のおまえは不利な立場に立たされやすい。気をつけろ、少年。とりあえずこの薬は私からほたるに渡しておく」
「待ってくれよ。俺が盗んだと思っているのか?」
高いヒールで先を歩く生徒会長の右手を思わず掴んでしまった。
「触れるなっ!」
後には引けず、その手を拘束したまま「頼むから、聞いてくれ」と叫んだ。
「やめろっ!」
その叫び声に周囲の通行人が足を止めた。
「最近の中学生は」「女の子が嫌だって言ってるのにねぇ」「強引な男の子ね」
あらゆる方向から僕を非難する声が囁かれる。
やむを得ず手を離した。
「米粒ひとつ残さず食べるやつに悪いやつはいない。それくらいのことは知っている」
肩越しに僕を見る目はどこか愁いを帯びていた。理不尽に自分を敵視しているわけではないのだと知って、力強く手首を握りしめてしまったことを猛省した。情けなくて、しばらくは横断歩道の前で身動き取れずにいた。