10、対価
文字数 1,612文字
昼下がりに足が向いたのは、工藤乃瑛琉が住むメバチ団地だった。
誰かにメールアドレスを聞いてメールを送る方が効率的かもしれないが、やはり自分は散歩が好きなのだ。
まっすぐ堂々と伸びたひまわりが一列に並んで太陽を浴びていた。持ち前の健やかな黄色は、夏空にとても生える。
以前、通った時は、草木を愛でる心の余裕はなかった。
ふと、団地から工藤乃瑛琉が出てきた。彼女だけは依然として季節を無視した恰好をしている。からし色のハイネックに黒のロングスカートは見ているだけで汗ばんでくる。しかし、本人はそんなのどこ吹く風で、涼しげな顔だ。
「工藤さんん!?」
「乃瑛琉で良いよー」
「あ、うん。こんな偶然ってあるんだね」
「部屋の窓から見えたあ」
彼女が指差す先には、誰もが知ってるアニメの猫のぬいぐるみが窓辺に並んでいた。まさか通りから一番近いB棟の1階が彼女の住まいだったとは。
いや、そこが大事なのではない。窓から僕の姿を認めてわざわざ外へ出てきてくれたことの意図が知りたい。変に期待してしまうではないか。
単純かもしれないが、少し鼓動が早くなった。
「会う手間が省けてラッキーだよ」
あくまでも平静を装った口調で言ってみる。
「実を言うと今日は、お願いがあってきたんだ」
チャームポイントでもある垂れ目が、こちらを好奇心たっぷりにとらえた。
まじまじと彼女を改めて見て、思わずハッとする。以前にも増して左目の瞳孔の色が薄くなっていたのだ。髪の色も以前より銀色に近くなっている。
あのネグレクトの親は、この変化に気づいているだろうか。気づいたとしても彼女のためになる行動を取ってくれる見込みは薄い。
「お願いは」
「あ、ごめん」
かぶりを振る。
「えっと実は、飼い猫の食欲がなくて困っている人がいてね。噂によると工藤さんは猫と話せるって聞いたから、ぜひ協力してもらいたくて」
「いいよー。でも、猫とお話しするためにはね、薬をいっぱい飲まないとなんだぁよ」
無邪気な笑顔とは裏腹に、相変わらず深い闇を覗かす。彼女にとって薬は、切っても切り離せない関係なのが辛い。
尻ポケットから財布を取り出す。残金四千円。
「どこに行けば買えそう?」
「一度に買える量には制限があるからぁ、来月にならないとうちは買えないよー」
まるで他人事のように、甘ったるい声で呑気なことを言う。
「そんな制限があるんだ。じゃあ、家にある?」
「ママが転売しちゃったー」
「え?」
カッと燃え上がるような怒りが湧いてきた。
「やっぱりさ、児童相談所に行こう? どう見たって、工藤さんの身体は」
「乃瑛琉が良い!」
すべて言い終わらないうちに、彼女は右手を挙げてにっこりと主張した。
どうして僕だけがこんなに仄暗い声なのか。我慢できず、とっさに彼女の両肩を掴んで強く言い返してしまった。
「現実と向かい合うんだ! 真夏なのに、こんな厚着で平気なんて絶対におかしいよ!」
ついにぶちまけてしまった。
泣きくずれるか、そっぽをむかれるか、頬をぶたれるか、いくつか考えられる反応を想像したが、彼女は一瞬、ぽかんと口を半開きにさせたのち無言で家に帰っていった。
病気の人にキミは病気だよ、と言えば誰でも頭にくるに決まってる。でも、見過ごすわけにはいかない。
仁王立ちのまま、彼女の後ろ姿を切なくも歯がゆい思いで見守る。
彼女の過酷な日常は、変わらないのか。
足窓に落ちていたアルミ缶を、思わず蹴飛ばしてしまった。カラカラと甲高い音が団地に響いた。
後日、甘い物でも持って出直すしかないのか。その場で落胆していると、なんと、彼女は団地から戻ってきた。それも、ただ戻ってきたわけではない。右手には、ゾッとするものが握られていた。
誰かにメールアドレスを聞いてメールを送る方が効率的かもしれないが、やはり自分は散歩が好きなのだ。
まっすぐ堂々と伸びたひまわりが一列に並んで太陽を浴びていた。持ち前の健やかな黄色は、夏空にとても生える。
以前、通った時は、草木を愛でる心の余裕はなかった。
ふと、団地から工藤乃瑛琉が出てきた。彼女だけは依然として季節を無視した恰好をしている。からし色のハイネックに黒のロングスカートは見ているだけで汗ばんでくる。しかし、本人はそんなのどこ吹く風で、涼しげな顔だ。
「工藤さんん!?」
「乃瑛琉で良いよー」
「あ、うん。こんな偶然ってあるんだね」
「部屋の窓から見えたあ」
彼女が指差す先には、誰もが知ってるアニメの猫のぬいぐるみが窓辺に並んでいた。まさか通りから一番近いB棟の1階が彼女の住まいだったとは。
いや、そこが大事なのではない。窓から僕の姿を認めてわざわざ外へ出てきてくれたことの意図が知りたい。変に期待してしまうではないか。
単純かもしれないが、少し鼓動が早くなった。
「会う手間が省けてラッキーだよ」
あくまでも平静を装った口調で言ってみる。
「実を言うと今日は、お願いがあってきたんだ」
チャームポイントでもある垂れ目が、こちらを好奇心たっぷりにとらえた。
まじまじと彼女を改めて見て、思わずハッとする。以前にも増して左目の瞳孔の色が薄くなっていたのだ。髪の色も以前より銀色に近くなっている。
あのネグレクトの親は、この変化に気づいているだろうか。気づいたとしても彼女のためになる行動を取ってくれる見込みは薄い。
「お願いは」
「あ、ごめん」
かぶりを振る。
「えっと実は、飼い猫の食欲がなくて困っている人がいてね。噂によると工藤さんは猫と話せるって聞いたから、ぜひ協力してもらいたくて」
「いいよー。でも、猫とお話しするためにはね、薬をいっぱい飲まないとなんだぁよ」
無邪気な笑顔とは裏腹に、相変わらず深い闇を覗かす。彼女にとって薬は、切っても切り離せない関係なのが辛い。
尻ポケットから財布を取り出す。残金四千円。
「どこに行けば買えそう?」
「一度に買える量には制限があるからぁ、来月にならないとうちは買えないよー」
まるで他人事のように、甘ったるい声で呑気なことを言う。
「そんな制限があるんだ。じゃあ、家にある?」
「ママが転売しちゃったー」
「え?」
カッと燃え上がるような怒りが湧いてきた。
「やっぱりさ、児童相談所に行こう? どう見たって、工藤さんの身体は」
「乃瑛琉が良い!」
すべて言い終わらないうちに、彼女は右手を挙げてにっこりと主張した。
どうして僕だけがこんなに仄暗い声なのか。我慢できず、とっさに彼女の両肩を掴んで強く言い返してしまった。
「現実と向かい合うんだ! 真夏なのに、こんな厚着で平気なんて絶対におかしいよ!」
ついにぶちまけてしまった。
泣きくずれるか、そっぽをむかれるか、頬をぶたれるか、いくつか考えられる反応を想像したが、彼女は一瞬、ぽかんと口を半開きにさせたのち無言で家に帰っていった。
病気の人にキミは病気だよ、と言えば誰でも頭にくるに決まってる。でも、見過ごすわけにはいかない。
仁王立ちのまま、彼女の後ろ姿を切なくも歯がゆい思いで見守る。
彼女の過酷な日常は、変わらないのか。
足窓に落ちていたアルミ缶を、思わず蹴飛ばしてしまった。カラカラと甲高い音が団地に響いた。
後日、甘い物でも持って出直すしかないのか。その場で落胆していると、なんと、彼女は団地から戻ってきた。それも、ただ戻ってきたわけではない。右手には、ゾッとするものが握られていた。