26、ぐちゃぐちゃな僕の隣で
文字数 2,475文字
ヒノキの匂いがする。
懐かしい畳の匂いも鼻をかすめる。
ザラリとした熱いものが、僕の右頬を舐める。猫だ。
しかし、目を開けると猫ではなく鰐(わに)がいた。木造の高い天井から吊られた裸電球が照らしている逆光のせいで、表情はよく見えない。
「大丈夫?」
か細い声だったが、目覚めた者を迎い入れるにはちょうど良かった。少しずつ目が慣れてくる。
「美星……また会えたね」
嬉しさのあまり呼び捨てしてしまったが、彼女もまた僕の下の名前で呼んでくれた。
「丹司、いきなり倒れるからビックリした」
「いきなりって、美星もちょうど駅にいたの? って、あ!」
布団を投げ捨てて上半身を瞬時に起こす。
「マサヤ伯父さんは? 救急車に運ばれた後、どうなった? てか、僕の携帯は?」
「落ち着いて、ね」
鰐の面をつけたまま、美星は僕の頭を撫でてくれた。初対面の日に怯えていたとは思えないほど、彼女は自ら僕の近くにいてくれた。
「丹司の携帯よ」
そっと手渡された黒い携帯は、画面に亀裂が入っていた。電源ボタンを押したが立ち上がってこない。
朝までずっと充電器を挿していたのだ、電池切れは考えられない。いや待て、ぶっ倒れてからどれくらい時間が経ったのだ?
「今何時かわかる?」
美星は僕の枕元にある置時計を見て「10時」とだけ答えた。
「午前? 午後? いや、午前だよな」
遠くにある窓から、憎らしいほどまばゆい日光が射し込んでいた。
「病院に行かなきゃ。家にも連絡しなきゃ。ごめん、後で必ずお礼はするから」
「帰れないよ」
「帰れないって、なんで?」
「オジさんって、親族でしょう」
「ごめん、話の意味がわからないんだけど」
のんびり話す美星に初めて苛立ちを覚えた。
「オジさんはただの事故じゃないの」
「なんで分かるの?」
僕の声は、わなわなと震えていた。
「私があの場に居たのは、偶然じゃないの……」
「え? どういうこと?」
美星の頭がうなだれていく。
「匂いで察知できるの。そろそろ、この人の命は燃え尽きるなって」
「ごめん、美星の言っている言葉を理解してやれない。それより、お願いだから帰らせて、頼む」
僕の声は涙ぐんでいた。本当なら、気になる子の前で泣きたくなんてなかった。
「余所者の言葉は聞いてもらえないもん?」
美星は長い睫毛を震わせながら小さく首を振った。
「三親等があんな風に消えてしまった場合、八時間は結界を超えてはならないの。私はあなたに憎まれようとも、あなたを見殺しにすることはできないの」
美星は美星で必死の目だった。
銀色に輝く瞳は、僕を吸い込んで別の空間に封印してしまいそうなほど透き通っていた。
キジ白猫のグージーが僕と彼女との間に割り込んできた。
ナァナァとグージーは鳴くが、彼女は僕から目を離さなかった。
「お願い、せめて電話だけでもさせて」
美星はうなづくと、すぐに走って固定電話の子機を持ってきた。
病院の電話番号は登録されているらしく、受話器を耳に当てたときには既に通話音が聞こえた。
長い長い通話音。長く感じる通話音。
やっと出た女性に、僕は数時間前に西芽八駅から四十代の鬼月雅也がそちらの病院に運ばれたかどうかを早口で尋ねた。このままお待ちくださいと言われてから、十分くらい経ったような錯覚がした。
「ご親族の方ですか?」
「はいそうです」
「先ほど、お亡くなりになられました」
その言葉を耳にした瞬間、受話器が床を一度ハネてから転がっていった。
エコーのように何度も何度もその言葉が反響していた。
膝から崩れ落ちてから、しばらくその場に座り込んでしまった。
どのくらい経ってからだろう、僕は訥々とマサヤ伯父さんとの思い出を語り始めた。
「伯父さんはね、中学の先生になる前は、冒険家だったんだ。無人島に行っては変な虫に刺されてきたり、病気になったり。とにかく子供より子供みたいな大人でさ。中学の先生になったのは、娘さんの親友が小学校で虐められてて。じゃあ、中学になったら俺がいる中学に娘と入ればいい。そしたら、心強いだろう? 怖くないだろう? って。いつもさ、人のために生きる道を設定する人なんだ。だから、冒険家の時も、周りからはニートとか穀潰しだとか言われてたけど、本当は違うって俺は知ってた。友人が、震災で流されたって言う結婚式の時の写真を探してたんだ。凄い、カッコイイ伯父さんなんだ。長生きしないとダメな人なんだ。俺なんかより、生き永らえてくれないとダメな人なんだ」
涙と鼻水と汗と絶望で顔面ぐちゃぐちゃだった。
美星は、嗚咽が止まるまでずっとずっと僕の背を摩ってくれた。静かに相槌を打ちながらずっと。鰐の首からは、涙が何粒も落ちていた。
結界の外に出られたのは、それから六時間後。移動する気力もなくなっていたので、美星の忠告を忠実に守った。自分が寝ていた場所が社務所の中だったことにあとで気づいた。
神主さんに僕の涙声は筒抜けだったと思うと赤面だ。
念のため謝っておこうと思ったが、仕事で忙しいとのことで日を改めることにした。
初めて美星と会った坂道まで送ってくれた。
別れ際になると、急に気恥ずかしくなって目も合わせられなくなった。
「今日は、ありがとう。格好悪いとこ見せちゃったな……」
「また悲しくなると思う。その時は、我慢せず、いっぱい泣いて」
極上の優しさをもらった僕は涙を堪えて二度うなづいた。
くるりと足先を変え、自宅まで猛ダッシュした。
その夜、充電器に繋いでいなかった携帯がふっと息を吹き返した。マサヤ伯父さんも、やっぱり同じようにふっと目覚めてくれないかと願った。
お通夜と告別式は怒涛の如く終わった。
数年ぶりの再会を果たしたお転婆な従姉は、ずっとハンカチで両目を抑えていた。死因は心臓発作とされたが、心の中で僕はそれを信じていなかった。
懐かしい畳の匂いも鼻をかすめる。
ザラリとした熱いものが、僕の右頬を舐める。猫だ。
しかし、目を開けると猫ではなく鰐(わに)がいた。木造の高い天井から吊られた裸電球が照らしている逆光のせいで、表情はよく見えない。
「大丈夫?」
か細い声だったが、目覚めた者を迎い入れるにはちょうど良かった。少しずつ目が慣れてくる。
「美星……また会えたね」
嬉しさのあまり呼び捨てしてしまったが、彼女もまた僕の下の名前で呼んでくれた。
「丹司、いきなり倒れるからビックリした」
「いきなりって、美星もちょうど駅にいたの? って、あ!」
布団を投げ捨てて上半身を瞬時に起こす。
「マサヤ伯父さんは? 救急車に運ばれた後、どうなった? てか、僕の携帯は?」
「落ち着いて、ね」
鰐の面をつけたまま、美星は僕の頭を撫でてくれた。初対面の日に怯えていたとは思えないほど、彼女は自ら僕の近くにいてくれた。
「丹司の携帯よ」
そっと手渡された黒い携帯は、画面に亀裂が入っていた。電源ボタンを押したが立ち上がってこない。
朝までずっと充電器を挿していたのだ、電池切れは考えられない。いや待て、ぶっ倒れてからどれくらい時間が経ったのだ?
「今何時かわかる?」
美星は僕の枕元にある置時計を見て「10時」とだけ答えた。
「午前? 午後? いや、午前だよな」
遠くにある窓から、憎らしいほどまばゆい日光が射し込んでいた。
「病院に行かなきゃ。家にも連絡しなきゃ。ごめん、後で必ずお礼はするから」
「帰れないよ」
「帰れないって、なんで?」
「オジさんって、親族でしょう」
「ごめん、話の意味がわからないんだけど」
のんびり話す美星に初めて苛立ちを覚えた。
「オジさんはただの事故じゃないの」
「なんで分かるの?」
僕の声は、わなわなと震えていた。
「私があの場に居たのは、偶然じゃないの……」
「え? どういうこと?」
美星の頭がうなだれていく。
「匂いで察知できるの。そろそろ、この人の命は燃え尽きるなって」
「ごめん、美星の言っている言葉を理解してやれない。それより、お願いだから帰らせて、頼む」
僕の声は涙ぐんでいた。本当なら、気になる子の前で泣きたくなんてなかった。
「余所者の言葉は聞いてもらえないもん?」
美星は長い睫毛を震わせながら小さく首を振った。
「三親等があんな風に消えてしまった場合、八時間は結界を超えてはならないの。私はあなたに憎まれようとも、あなたを見殺しにすることはできないの」
美星は美星で必死の目だった。
銀色に輝く瞳は、僕を吸い込んで別の空間に封印してしまいそうなほど透き通っていた。
キジ白猫のグージーが僕と彼女との間に割り込んできた。
ナァナァとグージーは鳴くが、彼女は僕から目を離さなかった。
「お願い、せめて電話だけでもさせて」
美星はうなづくと、すぐに走って固定電話の子機を持ってきた。
病院の電話番号は登録されているらしく、受話器を耳に当てたときには既に通話音が聞こえた。
長い長い通話音。長く感じる通話音。
やっと出た女性に、僕は数時間前に西芽八駅から四十代の鬼月雅也がそちらの病院に運ばれたかどうかを早口で尋ねた。このままお待ちくださいと言われてから、十分くらい経ったような錯覚がした。
「ご親族の方ですか?」
「はいそうです」
「先ほど、お亡くなりになられました」
その言葉を耳にした瞬間、受話器が床を一度ハネてから転がっていった。
エコーのように何度も何度もその言葉が反響していた。
膝から崩れ落ちてから、しばらくその場に座り込んでしまった。
どのくらい経ってからだろう、僕は訥々とマサヤ伯父さんとの思い出を語り始めた。
「伯父さんはね、中学の先生になる前は、冒険家だったんだ。無人島に行っては変な虫に刺されてきたり、病気になったり。とにかく子供より子供みたいな大人でさ。中学の先生になったのは、娘さんの親友が小学校で虐められてて。じゃあ、中学になったら俺がいる中学に娘と入ればいい。そしたら、心強いだろう? 怖くないだろう? って。いつもさ、人のために生きる道を設定する人なんだ。だから、冒険家の時も、周りからはニートとか穀潰しだとか言われてたけど、本当は違うって俺は知ってた。友人が、震災で流されたって言う結婚式の時の写真を探してたんだ。凄い、カッコイイ伯父さんなんだ。長生きしないとダメな人なんだ。俺なんかより、生き永らえてくれないとダメな人なんだ」
涙と鼻水と汗と絶望で顔面ぐちゃぐちゃだった。
美星は、嗚咽が止まるまでずっとずっと僕の背を摩ってくれた。静かに相槌を打ちながらずっと。鰐の首からは、涙が何粒も落ちていた。
結界の外に出られたのは、それから六時間後。移動する気力もなくなっていたので、美星の忠告を忠実に守った。自分が寝ていた場所が社務所の中だったことにあとで気づいた。
神主さんに僕の涙声は筒抜けだったと思うと赤面だ。
念のため謝っておこうと思ったが、仕事で忙しいとのことで日を改めることにした。
初めて美星と会った坂道まで送ってくれた。
別れ際になると、急に気恥ずかしくなって目も合わせられなくなった。
「今日は、ありがとう。格好悪いとこ見せちゃったな……」
「また悲しくなると思う。その時は、我慢せず、いっぱい泣いて」
極上の優しさをもらった僕は涙を堪えて二度うなづいた。
くるりと足先を変え、自宅まで猛ダッシュした。
その夜、充電器に繋いでいなかった携帯がふっと息を吹き返した。マサヤ伯父さんも、やっぱり同じようにふっと目覚めてくれないかと願った。
お通夜と告別式は怒涛の如く終わった。
数年ぶりの再会を果たしたお転婆な従姉は、ずっとハンカチで両目を抑えていた。死因は心臓発作とされたが、心の中で僕はそれを信じていなかった。