ウツロが最後の
一音を
弾いて、その
余韻が消え去ったあと、少しの
間を
置き、音楽室の中に
拍手がわきおこった。
時刻はちょうど、始業ベルの三十分前。
ピアノの前に立ち、
奏者が深く礼をしたのを
合図に、取り巻きたちはドヤドヤと会場をあとにした。
「いやー、
佐伯くん。
君は日に日に進化を
遂げているよね。しかしフランスものもいいけど、たまにはバルトークにも
挑戦してほしいな」
音楽教師の
古河登志彦が、
中年太りの腹をたぷたぷ
揺らしながら、ウツロのほうへ近づいてきた。
「それは
単に、先生の趣味なのでは」
彼の回答に残っていた者たちは、口を押さえてクスクスと笑った。
「――っ!」
群集の中に
鋭い
殺気を感じ取り、ウツロはそちらへ視線を送った。
音楽室の
出入口、その右側。
開かれたドアの高さにおよぶかというほどの
背丈、ブレザーからのぞくワイシャツの
張り
具合から、たくましい肉づきがうかがえる。
なにより目立つのは、
崩し
気味に整髪された金髪で、そのところどころに黒いメッシュを入れてある。
氷潟夕真――
佐伯悠亮、すなわちウツロとは同じクラスではあるが、まだ一度たりとも会話したことはない。
そもそも彼が誰かと会話をしているのを、ウツロは見たことがない。
一匹狼――
そんな
印象を、ウツロは彼に対して持っていた。
氷潟夕真は腕を組んだ体勢でナイフのような
眼差しを、ウツロへ向けジッと送っている。
その
抉るような
威圧感に、ウツロは自分と同じく、通常なら経験しえない
修羅場をくぐってきた者だけが体得できる、強力な
闘気を確認した。
すきさえあれば、お前を殺す――
そう語りかけているようにも感じた。
「
佐伯
!」
真田龍子の声が耳に入り、ウツロはハッとわれに返った。
もう一度もとの場所を見ると、氷潟夕真の姿はどこにもなかった。
「……」
ウツロは彼の存在に、何か
得体の知れない、不安な気持ちを覚えた。
「おーい!」
「わっ」
ウツロがもう一度われに返ると、真田龍子が目の前に立って、
仏頂面を作っている。
「なーにボケッとしてたの? ほら、授業に
遅れるよ?」
「あ、うん、
真田
……」
「もう」
素性を
偽っている関係で、ここでは『ウツロ』と呼ぶことはできない。
真田龍子はそのことに――愛する者を
本名で呼ぶことができないことに、
耐えがたいもどかしさを感じていた。
ウツロはウツロで、「自分は『ウツロ』であって、『佐伯悠亮』ではないのに」というつらさに、ずっと向きあっていた。
それぞれの
想いを胸に
抱きながら、二人はしばし、見つめ合った。
「佐伯くんって――」
「――?」
「真田さんの彼氏、で、いいんだよね?」
「
刀子さん……」
クラスメイト・
刀子朱利の
横槍に、二人は水を差された。
彼女は手を後ろに組み、
赤毛のロングヘアーを
揺らしながら、ウツロと真田龍子の顔を、かわるがわるのぞきこんだ。
「朱利! なんだよ、その引っかかった言い方! お前には関係ないだろ!?」
「いいじゃん
瑞希。それに、関係はあるんだよ?」
「はあ?」
態度にイラついた
長谷川瑞希が、腰に手を当てながら
叫んだが、赤毛の少女は
含みを持たせた言い回しで、それをはぐらかした。
「――っ!?」
ウツロはいきなり、刀子朱利に
手首を
掴まれ、
前方に引き寄せられた。
目の前には彼女の
不敵にほほえむ顔がある。
「わたしも佐伯くんが、好き」
刀子朱利はウツロの
唇を
奪った。
(『第4話 ウツロにまつわる
略奪宣言』へ続く)