第66話 はじめてバスに乗った

文字数 1,728文字

 弟が泣きながら帰ってきた。
「手が折れた。痛い。いたい」
「どなにしよったん」
「ミッちゃんと走りよってこけた(転んだ)」
「そら大変だ。早ようお父に診てもらいな」と祖母
「どれどれ、こりゃ大したことはないわ」と言いながらも父は、
柔道をしていたというご隠居さんのところへ弟を連れていった。
添え木をして貰って帰ってきたが「痛い。いたい」と泣き止まない。
 弟は6歳(数え年)で普段は手のかからない子であった。
 母は弟の1歳になるのを待てず亡くなっている。不憫な子だと祖母は、
可愛がっていたが彼なりに充たされぬ思いもあったのであろう。と後で思ったことだ。
 母の代わりになれるはずもなかったが、弟は何かと姉の私を慕って頼りにして
いるらしかった。この時も涙に溢れた目で「ここが痛い」としきりに訴えてくる。
その小さな丸い手を両手でくるんでいると、弟の痛みや不安がジンジン伝わってきた。
 父に「町のお医者さんへ連れていってやって」と頼んだが「大したことないわ」と
取り合わなかった。父は骨折でないことを把握していたのだろう。町へ行くにはお金も
時間もかかる。後になってみると理解できることだが……。説明がなければ十歳(数え歳)の
子供には、わかるはずもない。逆に父の素っ気ない態度に思わず反抗心がムラムラと湧いた。
父が連れて行かないのなら、私が連れて行く
「明日は、んね(姉)が町のお医者さんに連れていってやるからもう泣くな」と
その夜は弟をなだめた。弟は安心したのか泣きながら祖母の布団に潜って寝てしまった。
 私は、啖呵を切ったものの次第に不安に駆られてきた。
 バスに乗ったことも、町へ行ったこともないのにどうして街に行ったらいいのだろう。
 溜め込んだ竹の貯金箱を空っぽにして、有り金を巾着に入れ頭もとに置いた。
目はだんだん冴えてなかなか眠れなかった。
 三ツ合橋の近く「出来島」に祖母の姪の春江おばさんの家がある。と聞いた
ことがある。まずそこを訪ねようと思った。
 翌日、早朝、そっと家を出た。バスの始発は家の近くで運転手はよく知っている
坂本のおじさんである。定員7〜8人くらいの小さい木炭バスだ。後ろに積んだ窯で
木炭を燃やしてガスを発生させ、そのガスの噴射でエンジンを回転させ走行していた。
炭を燃焼させるのに村の鍛冶屋さんのように何かで空気を送っていたような覚えがある。


「今日はどうしたんで」不審そうにおじさんが言った。
私は三ツ合橋の近くまで行きたいと言うと、
「それなら、駅前で降りずに車庫まで乗って行きな。その方が近いよ」と教えてくれた。
最終便を確かめてバスを降りた。

「高橋の仲蔵と言う家を知りませんか」「さあね」
「あのう山本製材の近くです」同じことを何度繰り返したことか。
「東じゃ、西じゃ」言われても西も東も分からない。
「右ですか、左ですか」と尋ねあぐねて、三ツ合橋の中央に立ったら、
もう近ぞと元気が出てきた。橋の袂を左に折れる。
そこに目指す家はあるはずだ「高橋仲蔵」の表札を見つけた。
目的が半ば達成したような高揚を覚えた。
 玄関に現れた春江おばさんを見て涙がふき出した。
おばさんは私たちを見て、驚いたようだったが、やがて
「ほねつぎ」の医院へ連れていってくれた。
「折れてはいないけど、大きなヒビが入っている。しばらく動かさないように」
添え木をした手は大仰に首から吊り下げられた。一方私は、全財産を持って
きたものの「なんぼ要るのか、足らなんだらどうしよう」と気が気でならなかった。
だが、心配は杞憂に終わり、巾着はまだ膨らんでいた。
よいことをしたのか、出過ぎたことであったのか?立ち位置が異なれば意見も違う。
私は、今も答えは出ない。
しかし「何でもやったらやれるんだ」変な自信に似たようなものが、
魂に入り込んだようだ。
 何はともあれ、十歳の少女には荷が重過ぎたのだ。
安心してもう泣かない弟の顔を見たら、ほっとして精魂尽き果てたのだろう。
どのようにして帰ったのか、帰って父から大目玉を食ったはずだが、
それも全く記憶にない。
あれから80年が流れ去って、昔話になった。しかし、 はじめて乗ったバスと、
はじめて見た町だけは色褪せながら今も記憶にある。
 弟も覚えていると言うから何よりほっこりする。
















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