見て見ぬ振りができなかったんですよ
文字数 3,519文字
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「見て見ぬ振りができなかったんですよ」
「先生もだ」
「じゃあ先生も助けてくれるんですね」
僕は、困っている瀬川さんを見て、力になりたいと思った。先生もそう思いませんか? と見つめる。
柳井先生はまだ二十代だから歳も近いし、くだけた口調で世間話や冗談も言うので、人気もある。優しくて気さくな人だなあ、と思っていたので期待してしまう。
「助けてあげると言ってあげたいけどさあ、ちょっと、まずいなあ」
柳井先生が頭をかきながら、顔を上げる。眉と唇を歪め、難色を示しているのが明らかだった。
「学校でこういうのはちょっと、なあ……ダメなんだよ」
「どうしてもですか?」
僕は瀬川さんの犬を探すためのチラシを校内の掲示板に貼って回った。それがまずいことだったようで、「誰がこれを貼ったんだ?」「平が貼ってるのを見ましたよ」という流れで呼び出しをされ、今に至った。
職員室に呼び出されるのは初めてだ。僕の他にお説教をされている生徒はいないし、なんだか自分がとんでもないことをしてしまったような気がしてきた。「平」と名前を呼ばれ、はっとする。
「学校は勉強する場所だからさ。学校の掲示板にこういう関係のないものを貼られるのを、先生は見て見ぬふりをできないんだよ」
「でも、ボランティア募集のポスターもあるじゃないですか」
「あれは、学校の課外活動の一環だから。先生だって、意地悪で言ってるんじゃないんだ。瀬川とはご近所だから犬の散歩をしてるのを見かけたり、なんなら犬を撫ぜたりしたこともある」
「だったら、なんとかしてあげたいじゃないですか」
瀬川さんは、二日前の月曜日から元気がなかった。どこか思いつめたような表情をし、同級生と談笑をしていてもどこか上の空に見えた。
クラスの委員長を務めていて、困ったらいつでも話しかけてねと言わんばかりの優しい雰囲気をいつも身に纏っている。クラスを盛り上げるタイプではないけれど、彼女が委員長なら穏やかなクラスになるぞ、とみんなが感じているのではないかと思う。
弱っている様子の瀬川さんを見ていたら、居ても立ってもいられなかった。
自分の性分だと思うのだけれど、僕は困っている人を見て見ぬ振りができないのだ。
別に、自分の力を誇示したいとか、感謝をされたいというわけではない。むしろ、力不足だった、と自分の無力さに落胆することの方が多い。妹から「困っている人の所為で、兄が一番困っているよね」としみじみ言われている。その通りかもしれない。それでも、後から「あの時に声をかけておけば、何かできたのではないか?」という後悔に飲まれるよりはましだ。
というわけで、瀬川さんに、「何かあったの?」と声をかけ、飼っている犬が散歩中にいなくなってしまったのだと教わった。
いつもクラスの為に働いてくれている瀬川さんに恩返しをする番だと、「チラシを作ろう」と提案し、学校でも掲示することにしたのだ。
「お前たち二人は優等生というか、問題を起こさないと思ってたんだけどなあ」
「期待を裏切ってすいません」
「いや、失言だった。問題を起こしてもいいんだよ、別に。教育するのが学校だからさ」
そう言って、柳井先生が椅子の背もたれから身を起こす。「で、瀬川は?」
「町の掲示板に貼る許可を取りに行ってます」
「学校での許可も、事前に取ってもらいたかったなあ。これが他の先生に見つかってたら反省文だったぞ。見つけたの俺で、注意で済んだだけでラッキーだと思って諦めてくれ……でも、平がこういう目立つことをするのは珍しいな」
確かに、そうだと思う。なるべく迷惑のかからないように、邪魔にならないように、期待を裏切らないように、と生きている。
今も、駄々をこねて先生を困らせているような気がして申し訳なさがある。僕らしくないかもしれないが、簡単に引き下がれない理由もあった。
「先生、クビキリって知ってますか?」
思い切って、そう口にする。
「クビキリ? ってあの動物のやつのことか?」
柳井先生は知っていたようで、渋い顔をする。気軽に口にする話題ではない。残酷だし、話を聞くのも嫌だろう。僕もそうだ。でも、伝えなければと話を続ける。
「実は僕、野毛にある図書館でクビキリを見つけたんです」
「見つけたって、え、クビキリをか?」
「はい。僕が第一発見者で、多分、犯人も見ました」
柳井先生の顔色が、困惑によって塗り替えられていく。ショックを受けたのか、手で口を覆った。
首切り、クビキリ。
最近、犬や猫などの動物の首が切られて、その頭が町中に置かれる事件が起こっている。この事件がクビキリと呼ばれ、話題になっていた。
「クビキリが起きてるの、この辺じゃないですか。瀬川さんの犬が巻き込まれるかもしれないと思ったら、それで不安で仕方がなくて」
僕は、見てしまった。だから、生々しいイメージが思い浮かんでしまい、どうしても瀬川さんの力になりたかった。柳井先生は、じっと僕を見つめ、ゆっくりと椅子の背もたれに体を預けながら腕を組み、考えこむようなポーズを取った。
「なるほどな、見てしまったのか。それは悩ましいな。ちなみに、警察には言ったのか?」
「はい。その日の内に通報しました」
そうかそうか、と柳井先生は頷きながら、少し厳しい表情になった。
「そういうことは、ちゃんと学校とか俺にも報告してくれよなあ」
「気を遣わせてしまったら申し訳ないので、黙ってました。すいません」
母親も心配はしていたが、僕の性格を知っているから「優介が言いたくないなら、言わなくてもいいんじゃないかな」と言ってくれたので、学校には黙っていた。
手持ちのカードを切った。どうだろうか、と柳井先生の反応を見ていると、先生は頭に両手を起き、ふーっと大きく息を吐き出した。吐き出された息によって、さっきまでのやり取りが彼方へと吹き飛ばされて行くようだった。
「事情はわかった。チラシの件は俺から許可を取れないか聞いてみるよ」
「本当ですか?」
「でも、期待はしないでくれよ。偉い先生は頭が固いから」
柳井先生ならば、わかってくれるんじゃないかと期待していたので、ほっとした。ありがとうございます、と深々と頭を下げる。
「それで、平はどう思った?」
「どうって?」
「クビキリを見たんだろ? 平はクビキリを見て、何を感じた?」
柳井先生に訊ねられ、意識がふわりと体を抜け出すような感覚を覚えた。
ベンチの上に乗っている猫の頭部と向かい合った、あの日の夜を思い出す。口の中が乾き、額にじわっと汗が浮かぶ。冷たい風に晒されたような怖気を感じた。
かっと見開かれていた白猫の目は、虚空を見つめていた。何かの置物かと思ったが、死骸だとわかったときに頭と体が固まった。気持ち悪い、と感じるよりも、その残酷な光景に戦慄した。
「……とても」
僕はしばらくの間、呆然と、クビキリと見つめ合ってしまった。自分がとてもいけないことをしているような気持ちになった。死との対面、悪意を見せつけられ、心をどす黒いペンキでぐちゃぐちゃに汚されていくような感覚を味わった。
「とても怖かったです」
「怖かった、か。どんな風に?」
「どうしてこんなことを? って意識がぐるぐるして、命がこんな理不尽な目に遭うなんて信じられなくて、僕は……」
僕は? どう思った? 言葉が出てこない。息が苦しい、自分の呼吸が乱れている、そう気付いた時に「深呼吸を」と柳井先生に優しい声で促された。頷き返し、息を大きく吐き出し、吸い込み直す。自分が呼吸をできているのは生きているからだ、と実感した。
「もし、何かを思い出したり、辛かったら、遠慮しないで俺に相談するだぞ。力になる」
「ありがとうございます。頼らせていただきます」
一人で抱え込むなよ、と柳井先生に言われ、恐縮しながら職員室の出口に向かう。チラシを見つけたのが柳井先生で本当に良かった。
「失礼しました」
一礼して職員室の外に出ると、廊下の壁に背をつけていた男子生徒と目が合った。
「やっ」と森巣が柔和な笑みを浮かべ、右手を挙げながら、壁から背を離した。
森巣がそのまま、こちらにやって来る。どうしてここに森巣が? と思いつつ、「やあ」と返事をする。
「待ってたんだ」
待ってた? 僕を? 戸惑っている間に距離をどんどん詰められ、どきりとする。
「手伝うよ、犬探し」
「見て見ぬ振りができなかったんですよ」
「先生もだ」
「じゃあ先生も助けてくれるんですね」
僕は、困っている瀬川さんを見て、力になりたいと思った。先生もそう思いませんか? と見つめる。
柳井先生はまだ二十代だから歳も近いし、くだけた口調で世間話や冗談も言うので、人気もある。優しくて気さくな人だなあ、と思っていたので期待してしまう。
「助けてあげると言ってあげたいけどさあ、ちょっと、まずいなあ」
柳井先生が頭をかきながら、顔を上げる。眉と唇を歪め、難色を示しているのが明らかだった。
「学校でこういうのはちょっと、なあ……ダメなんだよ」
「どうしてもですか?」
僕は瀬川さんの犬を探すためのチラシを校内の掲示板に貼って回った。それがまずいことだったようで、「誰がこれを貼ったんだ?」「平が貼ってるのを見ましたよ」という流れで呼び出しをされ、今に至った。
職員室に呼び出されるのは初めてだ。僕の他にお説教をされている生徒はいないし、なんだか自分がとんでもないことをしてしまったような気がしてきた。「平」と名前を呼ばれ、はっとする。
「学校は勉強する場所だからさ。学校の掲示板にこういう関係のないものを貼られるのを、先生は見て見ぬふりをできないんだよ」
「でも、ボランティア募集のポスターもあるじゃないですか」
「あれは、学校の課外活動の一環だから。先生だって、意地悪で言ってるんじゃないんだ。瀬川とはご近所だから犬の散歩をしてるのを見かけたり、なんなら犬を撫ぜたりしたこともある」
「だったら、なんとかしてあげたいじゃないですか」
瀬川さんは、二日前の月曜日から元気がなかった。どこか思いつめたような表情をし、同級生と談笑をしていてもどこか上の空に見えた。
クラスの委員長を務めていて、困ったらいつでも話しかけてねと言わんばかりの優しい雰囲気をいつも身に纏っている。クラスを盛り上げるタイプではないけれど、彼女が委員長なら穏やかなクラスになるぞ、とみんなが感じているのではないかと思う。
弱っている様子の瀬川さんを見ていたら、居ても立ってもいられなかった。
自分の性分だと思うのだけれど、僕は困っている人を見て見ぬ振りができないのだ。
別に、自分の力を誇示したいとか、感謝をされたいというわけではない。むしろ、力不足だった、と自分の無力さに落胆することの方が多い。妹から「困っている人の所為で、兄が一番困っているよね」としみじみ言われている。その通りかもしれない。それでも、後から「あの時に声をかけておけば、何かできたのではないか?」という後悔に飲まれるよりはましだ。
というわけで、瀬川さんに、「何かあったの?」と声をかけ、飼っている犬が散歩中にいなくなってしまったのだと教わった。
いつもクラスの為に働いてくれている瀬川さんに恩返しをする番だと、「チラシを作ろう」と提案し、学校でも掲示することにしたのだ。
「お前たち二人は優等生というか、問題を起こさないと思ってたんだけどなあ」
「期待を裏切ってすいません」
「いや、失言だった。問題を起こしてもいいんだよ、別に。教育するのが学校だからさ」
そう言って、柳井先生が椅子の背もたれから身を起こす。「で、瀬川は?」
「町の掲示板に貼る許可を取りに行ってます」
「学校での許可も、事前に取ってもらいたかったなあ。これが他の先生に見つかってたら反省文だったぞ。見つけたの俺で、注意で済んだだけでラッキーだと思って諦めてくれ……でも、平がこういう目立つことをするのは珍しいな」
確かに、そうだと思う。なるべく迷惑のかからないように、邪魔にならないように、期待を裏切らないように、と生きている。
今も、駄々をこねて先生を困らせているような気がして申し訳なさがある。僕らしくないかもしれないが、簡単に引き下がれない理由もあった。
「先生、クビキリって知ってますか?」
思い切って、そう口にする。
「クビキリ? ってあの動物のやつのことか?」
柳井先生は知っていたようで、渋い顔をする。気軽に口にする話題ではない。残酷だし、話を聞くのも嫌だろう。僕もそうだ。でも、伝えなければと話を続ける。
「実は僕、野毛にある図書館でクビキリを見つけたんです」
「見つけたって、え、クビキリをか?」
「はい。僕が第一発見者で、多分、犯人も見ました」
柳井先生の顔色が、困惑によって塗り替えられていく。ショックを受けたのか、手で口を覆った。
首切り、クビキリ。
最近、犬や猫などの動物の首が切られて、その頭が町中に置かれる事件が起こっている。この事件がクビキリと呼ばれ、話題になっていた。
「クビキリが起きてるの、この辺じゃないですか。瀬川さんの犬が巻き込まれるかもしれないと思ったら、それで不安で仕方がなくて」
僕は、見てしまった。だから、生々しいイメージが思い浮かんでしまい、どうしても瀬川さんの力になりたかった。柳井先生は、じっと僕を見つめ、ゆっくりと椅子の背もたれに体を預けながら腕を組み、考えこむようなポーズを取った。
「なるほどな、見てしまったのか。それは悩ましいな。ちなみに、警察には言ったのか?」
「はい。その日の内に通報しました」
そうかそうか、と柳井先生は頷きながら、少し厳しい表情になった。
「そういうことは、ちゃんと学校とか俺にも報告してくれよなあ」
「気を遣わせてしまったら申し訳ないので、黙ってました。すいません」
母親も心配はしていたが、僕の性格を知っているから「優介が言いたくないなら、言わなくてもいいんじゃないかな」と言ってくれたので、学校には黙っていた。
手持ちのカードを切った。どうだろうか、と柳井先生の反応を見ていると、先生は頭に両手を起き、ふーっと大きく息を吐き出した。吐き出された息によって、さっきまでのやり取りが彼方へと吹き飛ばされて行くようだった。
「事情はわかった。チラシの件は俺から許可を取れないか聞いてみるよ」
「本当ですか?」
「でも、期待はしないでくれよ。偉い先生は頭が固いから」
柳井先生ならば、わかってくれるんじゃないかと期待していたので、ほっとした。ありがとうございます、と深々と頭を下げる。
「それで、平はどう思った?」
「どうって?」
「クビキリを見たんだろ? 平はクビキリを見て、何を感じた?」
柳井先生に訊ねられ、意識がふわりと体を抜け出すような感覚を覚えた。
ベンチの上に乗っている猫の頭部と向かい合った、あの日の夜を思い出す。口の中が乾き、額にじわっと汗が浮かぶ。冷たい風に晒されたような怖気を感じた。
かっと見開かれていた白猫の目は、虚空を見つめていた。何かの置物かと思ったが、死骸だとわかったときに頭と体が固まった。気持ち悪い、と感じるよりも、その残酷な光景に戦慄した。
「……とても」
僕はしばらくの間、呆然と、クビキリと見つめ合ってしまった。自分がとてもいけないことをしているような気持ちになった。死との対面、悪意を見せつけられ、心をどす黒いペンキでぐちゃぐちゃに汚されていくような感覚を味わった。
「とても怖かったです」
「怖かった、か。どんな風に?」
「どうしてこんなことを? って意識がぐるぐるして、命がこんな理不尽な目に遭うなんて信じられなくて、僕は……」
僕は? どう思った? 言葉が出てこない。息が苦しい、自分の呼吸が乱れている、そう気付いた時に「深呼吸を」と柳井先生に優しい声で促された。頷き返し、息を大きく吐き出し、吸い込み直す。自分が呼吸をできているのは生きているからだ、と実感した。
「もし、何かを思い出したり、辛かったら、遠慮しないで俺に相談するだぞ。力になる」
「ありがとうございます。頼らせていただきます」
一人で抱え込むなよ、と柳井先生に言われ、恐縮しながら職員室の出口に向かう。チラシを見つけたのが柳井先生で本当に良かった。
「失礼しました」
一礼して職員室の外に出ると、廊下の壁に背をつけていた男子生徒と目が合った。
「やっ」と森巣が柔和な笑みを浮かべ、右手を挙げながら、壁から背を離した。
森巣がそのまま、こちらにやって来る。どうしてここに森巣が? と思いつつ、「やあ」と返事をする。
「待ってたんだ」
待ってた? 僕を? 戸惑っている間に距離をどんどん詰められ、どきりとする。
「手伝うよ、犬探し」