不死身
文字数 2,276文字
7
「初めていらっしゃいましたよね。このお店はどうやって?」
オーナーが、おそるおそると言った様子で訊ねてきた。
「ああ、それは、珍しいアップルパイを食べられると聞いたので」
「そうなんですよ、うちではグラニースミスを使ってるんです。こだわりなんですよ」
少し誇らしそうに胸を張ってから、「すぐお持ちしますね」と、オーナーがそそくさとカウンターの中に戻って行った。
手持ち無沙汰になり、気まずい沈黙が生まれた。牧野とであれば、一方的に喋ってくれるので楽なのだが、森巣とはまだ何を話していいのかわからない。
森巣もどこか落ち着かない様子で、店内に視線を泳がせている。もしかしたら、森巣も小此木さん以外にこうして話す相手がいないから慣れていないのかもしれない。
「映画に詳しいけど、いつから見てたの?」
「それ、本当に興味があるのか?」
「世間話だけど、僕らはお互いのことをよく知らないじゃないか。特に森巣は、学校では好青年ぶっているし、少しくらい森巣のことを教えて欲しいんだけど」
理解できない相手と一緒にいるのは少し怖いんだ、という気持ちもあったが、それは口にしない。半ばまくし立てるようにそう言うと、森巣は言おうか言うまいか逡巡するような間を置いてから、ゆっくり口を開いた。
「子どもの頃住んでいたアパートの大家が契約をしていたからCSが映ってな、俺はそれをずっと見ていた。飯を食う、トイレに行く、呼吸をする、と同じくらいの役割だったな。いや、飯は全然出てこなかったから、映画からの方が栄養をもらったかもな」
子供の頃からずっと観てたのかと合点がいったが、聞き捨てならないことが話に出て来た。
「ご飯が出てこなかった?」
「育児放棄と児童虐待、よくある話だ。腐った家だった。冷蔵庫の中身も腐っていたしな」
飄々とした口ぶりだった。だからすぐにまた、「冗談だよ」と笑みを浮かべるのではないか、と続きを待ってしまう。森巣がすぐに、くっくっくと肩を揺らしながら笑い始めたので、ほっとする。
「強盗にも同情されるくらい、酷い家だった」
「強盗?」と僕は首を傾げる。
「家に強盗が来たんだよ。それで、金目のものを盗むついでに、親をボコボコにしてくれた。俺が復讐する気が失せるくらい、壮絶にな。その時に、『ここは酷え家だな』って慰められたよ」
「それは、良い話なのか、悪い話なのか」
「良い話だ。児相から逃げ回ってた親が病院送りになったおかげで、俺は他所に行くことになったからな」
森巣は結果的に悪人に、ルールの外にいる人間に救われた、だから彼自身もルールを無視した行動を取るのかもしれない。行動原理の一端を垣間見たような気持ちになるが、複雑だ。
「うちも、父親がろくでもない人間だった」
促されたわけではないのに、口をついていた。
「ほう、どうして」
「子どもの頃、妹が歩けなくなって、厄介だ、面倒だ、と思って逃げ出したんだ」
おまけに、他所に女の人との関係を作っていたというのもうっすら知っている。
大切な人間関係を、無責任に放り出す、そんな大人にはなりたくない。父親代わりになれるなんて思っていないけど、妹には君のことを放り出す人間ばかりじゃないよということは体現して伝えたいと思っている。
小さい頃の記憶だし、僕は父親の顔も覚えていない。母親も許していないからか、悪影響だと思っているのか、写真を一枚も残していない。父親は消えたけど、恨みだけは家の底に、ずっと沈殿しているように思えた。
「父親が憎いのは、俺たちの共通点だな」
おかしいけど、確かにそうかもしれない。僕らは傷ついた。だからこそ、何かを守りたいと思うのも、共通しているのではないかと思う。
「あのろくでなしに一つだけ感謝してることがある。あいつは俺を不死身にした」
森巣は口元を歪めてシニカルな笑顔を浮かべ、右手をこちらに向ける。ピアニストのような長く細い指が綺麗で見惚れそうになるが、手のひらを見てぎょっとする。人差し指の付け根あたりから、斜めに一線、ミミズ腫れのようなものが浮かび上がっている。
柳井先生の家でも見せられたな、と思い出し、「どうしたの、それ?」と質問する。
「包丁で切りつけられた時に、庇ったらこうなった。おかげで、生命線に終わりがない」
親が子供に向かって包丁を振り下ろした、話を聞いただけで、頬が引き攣る。嘘ではない、ということを、痛々しい痣が雄弁に語っている。
「まさか、それで、不死身?」
そうだ、格好良いだろ、と自慢するように森巣が手のひらをひらひらさせる。
「言いにくいんだけどさ」
「なんだ」
「生命線は左手だよ。右手じゃない」
初めて、森巣が素の表情を見せたようだった。きょとんとした顔をし、左右の手を交互に見る。「騙された」と漏らす。
「マジでか?」
「マジでだよ」
森巣が、「おいおい」と漏らしながら、「最悪だな、あのろくでなしは、良いこと何もしなかったのかよ」と口を尖らせた。
「生命線短いし、やっぱしておくか、復讐」
落胆し、肩を落とす森巣を見ていたら、なんだかんだ言って彼も僕と同級生なのだな、とやっと親近感を覚えた。そして僕はずっと言いそびれていたことを伝える決心をする。それが今回、森巣に付き合うことにした大きな目的の一つだ。
口の中が乾いていることに気がついて、お冷を一口飲んで一呼吸置いてから、口を開く。
「初めていらっしゃいましたよね。このお店はどうやって?」
オーナーが、おそるおそると言った様子で訊ねてきた。
「ああ、それは、珍しいアップルパイを食べられると聞いたので」
「そうなんですよ、うちではグラニースミスを使ってるんです。こだわりなんですよ」
少し誇らしそうに胸を張ってから、「すぐお持ちしますね」と、オーナーがそそくさとカウンターの中に戻って行った。
手持ち無沙汰になり、気まずい沈黙が生まれた。牧野とであれば、一方的に喋ってくれるので楽なのだが、森巣とはまだ何を話していいのかわからない。
森巣もどこか落ち着かない様子で、店内に視線を泳がせている。もしかしたら、森巣も小此木さん以外にこうして話す相手がいないから慣れていないのかもしれない。
「映画に詳しいけど、いつから見てたの?」
「それ、本当に興味があるのか?」
「世間話だけど、僕らはお互いのことをよく知らないじゃないか。特に森巣は、学校では好青年ぶっているし、少しくらい森巣のことを教えて欲しいんだけど」
理解できない相手と一緒にいるのは少し怖いんだ、という気持ちもあったが、それは口にしない。半ばまくし立てるようにそう言うと、森巣は言おうか言うまいか逡巡するような間を置いてから、ゆっくり口を開いた。
「子どもの頃住んでいたアパートの大家が契約をしていたからCSが映ってな、俺はそれをずっと見ていた。飯を食う、トイレに行く、呼吸をする、と同じくらいの役割だったな。いや、飯は全然出てこなかったから、映画からの方が栄養をもらったかもな」
子供の頃からずっと観てたのかと合点がいったが、聞き捨てならないことが話に出て来た。
「ご飯が出てこなかった?」
「育児放棄と児童虐待、よくある話だ。腐った家だった。冷蔵庫の中身も腐っていたしな」
飄々とした口ぶりだった。だからすぐにまた、「冗談だよ」と笑みを浮かべるのではないか、と続きを待ってしまう。森巣がすぐに、くっくっくと肩を揺らしながら笑い始めたので、ほっとする。
「強盗にも同情されるくらい、酷い家だった」
「強盗?」と僕は首を傾げる。
「家に強盗が来たんだよ。それで、金目のものを盗むついでに、親をボコボコにしてくれた。俺が復讐する気が失せるくらい、壮絶にな。その時に、『ここは酷え家だな』って慰められたよ」
「それは、良い話なのか、悪い話なのか」
「良い話だ。児相から逃げ回ってた親が病院送りになったおかげで、俺は他所に行くことになったからな」
森巣は結果的に悪人に、ルールの外にいる人間に救われた、だから彼自身もルールを無視した行動を取るのかもしれない。行動原理の一端を垣間見たような気持ちになるが、複雑だ。
「うちも、父親がろくでもない人間だった」
促されたわけではないのに、口をついていた。
「ほう、どうして」
「子どもの頃、妹が歩けなくなって、厄介だ、面倒だ、と思って逃げ出したんだ」
おまけに、他所に女の人との関係を作っていたというのもうっすら知っている。
大切な人間関係を、無責任に放り出す、そんな大人にはなりたくない。父親代わりになれるなんて思っていないけど、妹には君のことを放り出す人間ばかりじゃないよということは体現して伝えたいと思っている。
小さい頃の記憶だし、僕は父親の顔も覚えていない。母親も許していないからか、悪影響だと思っているのか、写真を一枚も残していない。父親は消えたけど、恨みだけは家の底に、ずっと沈殿しているように思えた。
「父親が憎いのは、俺たちの共通点だな」
おかしいけど、確かにそうかもしれない。僕らは傷ついた。だからこそ、何かを守りたいと思うのも、共通しているのではないかと思う。
「あのろくでなしに一つだけ感謝してることがある。あいつは俺を不死身にした」
森巣は口元を歪めてシニカルな笑顔を浮かべ、右手をこちらに向ける。ピアニストのような長く細い指が綺麗で見惚れそうになるが、手のひらを見てぎょっとする。人差し指の付け根あたりから、斜めに一線、ミミズ腫れのようなものが浮かび上がっている。
柳井先生の家でも見せられたな、と思い出し、「どうしたの、それ?」と質問する。
「包丁で切りつけられた時に、庇ったらこうなった。おかげで、生命線に終わりがない」
親が子供に向かって包丁を振り下ろした、話を聞いただけで、頬が引き攣る。嘘ではない、ということを、痛々しい痣が雄弁に語っている。
「まさか、それで、不死身?」
そうだ、格好良いだろ、と自慢するように森巣が手のひらをひらひらさせる。
「言いにくいんだけどさ」
「なんだ」
「生命線は左手だよ。右手じゃない」
初めて、森巣が素の表情を見せたようだった。きょとんとした顔をし、左右の手を交互に見る。「騙された」と漏らす。
「マジでか?」
「マジでだよ」
森巣が、「おいおい」と漏らしながら、「最悪だな、あのろくでなしは、良いこと何もしなかったのかよ」と口を尖らせた。
「生命線短いし、やっぱしておくか、復讐」
落胆し、肩を落とす森巣を見ていたら、なんだかんだ言って彼も僕と同級生なのだな、とやっと親近感を覚えた。そして僕はずっと言いそびれていたことを伝える決心をする。それが今回、森巣に付き合うことにした大きな目的の一つだ。
口の中が乾いていることに気がついて、お冷を一口飲んで一呼吸置いてから、口を開く。