逃げろ

文字数 1,424文字

      19

「二人とも、自分の呂律が回っていないことに気付いていないだろ。部屋の外でたっぷり待ったから、効いてるぞ」

 ぞくりとする。そう言えば、ずっと目眩のような感覚を覚えているし、ずっと瞼が重い。殴られたから混乱しているのかと思っていたけど、そうじゃなかったのか、とはっとする。立ち上がろうと試みるが、上手くいかない。

「通りで、身体の調子が……」と森巣がおっとりとした口調で言う。

 カモミールティーに薬を盛られていたのか、と気づくがもう遅い。僕はすっかり飲み干してしまっていた。

 どうして薬を盛られた? と疑問が浮かんだ瞬間に、はっとする。「クビキリの犯人がわかった」と柳井に、犯人に直接言ってしまっていた。迂闊だった。柳井は僕を家に招き入れ、どこまでわかっているのか様子を見ていたのだろう。

 もし真相を見抜いていたら、場合によっては……家にあげる前から決めていたのだ。
 ぶわっと全身から冷や汗が溢れる。

「さぁ、さっさと眠ってくれ。地下のガレージの準備はできているんだ」

 柳井先生が腕時計を確認しながら、のんびりとした口調で言った。隣にいる森巣を見る。彼もぼうっとした表情で虚空を眺めていた。

 ひゅーひゅーと、自分の呼吸する弱々しい音が聞こえる。胸が上下しているのがわかるが、そのペースが落ちて行くのもわかる。どうしてこんなことになったのだろう。僕は瀬川さんの犬探しを手伝おうと思っていただけなのに。危ない橋を渡るつもりはなかったのに。

 ……僕は、バカだ。

 ここにきて、自分の考えの未熟さに思い至った。僕はまだ平和ボケしていた。クビキリ犯を、悪意の影を見ておきながら、どうして気がつかなかったのか。その影に引き摺り込まれないか、もっと注意をしていなければいけなかったのだ。

「今日、自分が死ぬかもしれないと思うんだ」

 そう考えながら生きていなければいけなかった。あれ、こう言ったのは誰だっけ。意識が混濁としてくる。

「二人とも大人しくなって来たな、そろそろか」

 僕はこれから殺されるのだろうか。
 意識が沈みかけたが、悪を見逃したくない、という思いが湧き上がった。
 僕は今まで人の悪意に立ち向かわず、諍いにならないよう避けて来た。

 が、それは間違いだった。戦わなければならないときもある。

 きっと柳井はこれからも、町にどす黒い染みを落とし続けていくのだろう。その魔の手が、僕のように立ち向かう勇気がない者や、大切な家族や友人にも伸びるかもしれない。

 僕は、自分のいなくなった後の町を放っておけない。

 薄まる意識の中で、僕を繋ぎ止めてくれたのは、殴られた頬と口内の痛みだった。痛みと血の味に集中し、力を込める。

 僕は手遅れかもしれないけど、森巣は後から来た分、睡眠薬の効果も弱い筈だ。
 最後にできたばかりの友人、彼なら、なんとかしてくれるかもしれない。
 ちっぽけな勇気よ、僕の体を奮い立たせてくれ。
 今が、戦う覚悟を持つ時だ。
 渾身の力で床を思いっきり蹴り、立ち上がる。柳井の驚く顔が見えた。
 知ってしまった以上、仕方がない。性分なのだ。

「見て見ぬ振りはできないんですよ」

 そう言って、僕はそのままテーブルの反対側へ駆け出した。
 床を強く蹴って飛び出し、柳井の足に飛びついた。

「逃げろ」

 腹の底から声を振り絞る。

「森巣、逃げろ!」
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